第十八章 風に問うもの
精霊界──そこは、あらゆる輪郭が**“意志”によって決まる世界**だった。
火も水も、土も空も、すべてが思念と記憶から成る。
そのため“記録の揺らぎ”は即ち、存在そのものの不安定化を意味していた。
そして、最初に崩れかけたのは「風」だった。
風の霊域《千声の輪郭》。
あらゆる風が発する音が集められ、旋律のように世界をかたちづくる場所。
しかし今、その旋律は乱れていた。
吹きすさぶだけで“言葉をもたない風”たちが、地に伏し、空を飛べず、身を寄せ合っていた。
記録者・真木あやのが足を踏み入れると、風たちはざわりと動いた。
その身をすり抜け、何かを伝えたそうに渦を巻く。
しかし──そこに、“名”がない。
「……名前がないままだと、記録すらできない……」
あやのがそう呟いたとき、風の中から声がした。
「ならば、なぜ名を与える?」
頭上に風の衣を纏い、
その姿は人にも獣にも似て、定まらない。
髪は銀と空のあわいを揺らし、
瞳には、雲の切れ目の陽光が灯る、神聖なる姿で立っていた。
──風の精霊王・蒼穹。
「名とは境界。風は本来、形なく、束縛を嫌う。それでもなお、そなたは“名を与えて”記録するというのか?」
蒼穹の声は冷たくも、凛としていた。
風の王にふさわしい孤高の調べ。
あやのは、風の中に膝をついた。
そして、小さく語りかける。
「名前があるとね……その存在を“呼べる”んです。誰かが、あなたを呼んでくれる。そのことが、どれだけ嬉しいことか──私は知ってるから」
風たちが、微かに震える。
名を失っていた風精たちが、あやのの声にひそやかに揺れた。
「記録とは、閉じ込めることじゃない。“誰かに、忘れられないようにする”こと。だから……風のあなたにも、“忘れられたくない”という気持ちがあったはずでしょう?」
蒼穹は一瞬だけ目を細めた。
「……風には過去はない。あるのは“今”を吹き抜ける自由だけだ」
「違うよ」
あやのの声が、風の真ん中に落ちた。
「今も吹いてる風は、どこかの誰かが、あなたのことを思っているから吹くんだよ。
だから……あなたたちに、過去がないなんて、そんなことない」
──その瞬間、風の一つが、ひらりと形を持った。
かつて、蒼穹に仕えていた風精・トウカの姿。
名も形も失われていた彼女の“記憶”が、あやのの星眼に導かれて蘇る。
「王よ。わたしはあなたの名を愛していました。名があるから、風として生きられた。だから、もう一度……王の名を風にしてほしい」
蒼穹は静かに地へ降り立ち、トウカの記憶に手を添えた。
「……それが、そなたの願いか。我が名を、風に還せと」
彼の身体が光をまとい、風とともに溶けてゆく。
そして、次の瞬間──
あらゆる風が、“蒼穹”という名を取り戻した。
その名を中心に、それぞれの風が思い出す。
「僕は“ナギ”」
「私は“リュウ”」
「わたしは“風露”──あなたに名づけられた、ただの風でした」
それは、風たちの**復名**だった。
蒼穹が再び姿を結んだとき、その表情はどこか柔らかくなっていた。
「記録者よ。そなたの言葉は、我に“重さ”を与えた。だが……それは、あたたかな錨でもあるな」
「……ありがとう、蒼穹様。あなたの風は、ちゃんと今も吹いてます。そしてこれからも、誰かの背中を押す風になる」
──風の霊域に、霊灯が灯った。
界を巡る風が、その名を思い出したとき、
精霊界の崩れはひとつ、止まった。
次なる霊域へと向かうあやのの背に、蒼穹の声が届く。
「次は……赫焔のところか。あいつは、記録されることを最も嫌う。だが、そなたなら、きっと」
あやのは頷き、次の霊域──**火の王・赫焔**のもとへと向かう。
その炎は、記憶をも焼き尽くす灼熱の王。
だが彼にも、忘れたくない火があるはずだった。




