第十六章 対話の玉座
記録の巻物が星眼に収まったその夜、あやのは宿の一室で静かに目を閉じた。
深い呼吸のなか、意識は次第に外界から切り離されていく。
──冥界と精神の境に存在する、“記憶の界”へ。
死者が残した最も強い記憶に触れるための、記録者にのみ許された場所。
白く、果てのない空間に、一つだけ黒い玉座があった。
そしてそこに座す者──
骸の教皇、エルセディア四世。
金と血のような衣を纏い、骨だけの体を優雅に組み、彼は待っていた。
玉座の主として、あやのを迎えるように。
「……来たか、“記録者”よ」
声は、死してなお響く威厳に満ちていた。
それは万人の信仰を一身に集めた者の、それでも足りぬと知った者の声。
あやのは歩み寄る。
恐れも敵意もない。
ただ、記録者として──
「エルセディア様。私は、あなたの記録を持っています。あなたの書き残した“真実”と、冥界に刻まれなかった“言葉”を」
「記録……ふん。忘れたか?記録とは、万人の都合によって“美しく捏造される”ものだ」
「いいえ。私は、都合で記録はしません。あなたの記憶が、たとえ人に憎まれようとも。もしそれが“あなた自身”の物語なら、正しく記します」
教皇は、骨の指で玉座の肘掛けを叩いた。
「我が処刑の記録を読んだか?」
「はい。民衆によって神殿前で磔にされ、最後に神託さえ否定されたと……」
「ならば訊こう。“なぜ”我は処刑されたと思う?」
あやのは、一瞬黙し──それでも目をそらさずに言った。
「あなたが……神に似すぎたから。人ではなく、神のように信じられすぎてしまった。だから、“人の手で終わらせられる神”として、殺された」
しん、と沈黙が落ちた。
虚無の空間に、重たい何かが堆積する。
──そして次の瞬間、エルセディアの目が細く笑った。
「そうだ。神のように信じられ、神のように裏切られた。我は、神ではなかった。ただ、“そう記録される存在”だったに過ぎぬ」
「……あなたは記録に縛られ、殺された。けれど今、あなたはその“記録”を乗っ取ってまで、なお語ろうとしている。それは……あなた自身の言葉でしょ?」
あやのの声は、優しくも鋭い。
「今からでも、あなた自身の言葉を、あなたの意思で残せます。冥界の記録者として、私はその言葉を受け取る権利がある」
骸の教皇は立ち上がった。
黒の玉座を離れ、あやのの前に静かに歩み寄る。
「ならば、我の問いに答えよ。“記録とは、誰のものか?”」
あやのは答えた。
「……誰のものでもない。語る者がいて、聴く者がいて、そして“残したい”と願う魂がいて、その狭間に浮かぶのが“記録”です」
「ふ……」
骨の手が、あやのの頬に触れそうになって──
すっと空を撫でた。
「……記録者よ。ならば我を、書け。神でも、罪人でもない、**ひとりの“語りえぬ存在”**として」
次の瞬間、空間が激しく揺れた。
教皇の足元に、数千の叫び声が噴き出す。
磔にされた信徒、教皇を裏切った神官、憐れみに泣いた修道女。
全ての“未記録の記憶”が、あやのの星眼に吸い込まれていく。
教皇は、玉座へと戻りながら言った。
「記録とは呪いでもあり、救いでもある。我はようやく……己の物語を“読む者”に出会えたのかもしれぬ」
「……ありがとうございました」
精神の界から目を覚ましたとき、あやのの頬には一筋の涙が残っていた。
そこにあったのは、死者への哀れみではない。
「残す」ことの痛みと、それでも残すと決めた者への、敬意だった。
──冥界の空に、ふたつめの霊灯が灯った。
それは“記録の回復”の始まり。
そして教皇が“物語の中心”から一歩退いた、その証。
あやのは、深く息を吐いた。
「……さあ、記録を、続けよう」




