第十五章 語り部の檻
冥王の玉座をあとにしたあやのは、冥界の最も古い記録庫へと向かっていた。
その場所の名は、《忘却の図書館》。
記録の中でも、最も人に知られたくなかった“過去”が封じられた場所。
冥界において、そこは“読んではならぬ”とされていた。
なぜなら、そこにある記録は、歴史の“傷口”そのものだから。
*
冥都ルオ=アンを離れ、あやのが辿り着いたのは、深い渓谷の底にぽつりと建つ漆黒の建物だった。
──図書館ではない。それは“牢獄”のようだった。
鉄の扉には一切の紋章がなく、ただ「読む者、責を負え」とだけ刻まれている。
その前に立ち尽くしたとき、あやのの耳元で、誰かが囁いた。
「記録者。読み解く覚悟は、あるか?」
声の主は、扉の中から現れた。
頭から重たいフードをかぶり、背中に無数の巻物と鍵を背負った異形の影──
“図書の亡霊《ヴェス=カルト》”。
「この図書館は、“忘れられるべき真実”で満ちている。読んだ者は、記録に飲まれることもある。君のように“記録しながら生きる者”にとっては、とくに危うい場所だ」
「それでも、知りたいの。エルセディア様の封印について。どんな記録だったのか。どうして、ここに?」
亡霊は、あやのの瞳を見た。
藍と金にきらめく星眼が、恐れずにその“記録の深淵”を見返していた。
「……いいだろう。ならば、来るがよい。
彼の記録は、《第四の階》──“焼却禁止領域”にある。他の記録とは違い、永劫に廃棄が許されなかった」
階段を下りるたびに、世界が沈んでいく。
第一階は戦争の記録。
第二階は滅びた王朝の記録。
第三階は冥界に刃向かった罪人たちの記録。
そして──第四階には、**記録者によって封印された“未公開の真実”**があった。
あやのが手にした巻物には、古く歪んだ文字でこう記されていた:
「我は万人のために生まれ、万人に裏切られた。ゆえに、万人を裁く権を求める」
それは、エルセディア自身の“自筆”だった。
「……これは、彼の告白?」
亡霊は頷く。
「エルセディアは、死の間際にこの書を残した。だがあまりに“強すぎる意志”で記されたため、記録そのものが意思を持ち始めた」
「……記録が、魂を逆に“呼び戻す”?」
「その通り。これは記録ではない。彼自身が“生きる場所”として選んだ、第二の肉体だ。」
亡霊の言葉に、あやのは言葉を失う。
それはつまり、あの“記録”が保管された時点で、封印の危険は始まっていたということだった。
「冥王さまは……このことをご存じだったの?」
「知らぬはずがあるまい。だが、“記録者が戻るまでの仮置き”として、ここに封じられた」
「わたしが、遅れたから……」
あやのは巻物を抱きしめるようにして、小さく震えた。
そのとき、巻物の奥から声がした。
──まだ間に合う
──我が名を記せ
──偽りの封印を剥ぎ、真実を残せ
それは、誰かの怨念ではなかった。
それは、かつて万人に祈られた者の、悲痛な願いだった。
図書の亡霊は言った。
「真木あやのよ。もし、彼の“正しい記録”を残せるのなら、この冥界は再び均衡を取り戻すだろう。だが、間違えば──冥界の全記録が、彼一人の伝記に成り果てる」
「……私は、書きます。彼のすべてを。裁きも美化もせず、ただ……正しく、記録者として」
亡霊は、満足げに微笑んだ。
「では行け。“記録の霧”が晴れるとき、道は開かれよう」
あやのの背に、巻物がふわりと浮かび、星眼に吸い込まれていく。
その瞬間、冥界に新たな霊灯が一つ灯った。
──それは、かつて光を持ちすぎた者の“過去”が、ようやく記録されはじめた証だった。




