第十四章 封印の理
冥界の中心部、《黒星の座》へと至る道は、記録者にのみ開かれる。
かつて冥王が選びし者たちの記憶を刻むために築かれた、その深層の宮。
あやのがその扉をくぐったとき、足元に広がったのは、石ではなく“声”だった。
「──記録者よ。よう来たな」
冥王は、玉座に座していた。
その姿は以前と変わらない。
ただし、“目の奥”に宿る光が違っていた。
かつての冥王の瞳には、すべてを見通す静謐な死の色があった。
今のそれは、明らかな“焦り”と“怒り”が滲んでいた。
あやのは静かに礼を取り、前へ進む。
「冥界で、記録が壊れています。教皇エルセディアが……」
「封印が、破れた。否──自壊したと言うべきか」
あやのは目を伏せる。
「どうして?」
冥王は重く、言葉を選ぶように語り出した。
「エルセディアは、生前に記録と信仰を極めし者。生者の時代で数千に及ぶ魂の信奉を集め、死して後も、その魂は光り続けていた。本来なら、我らが手で静かに昇華されるはずだった」
「なのに、なぜ?」
冥王は立ち上がった。背後の黒星が瞬く。
「“記録者”が長く留守だったためだ。」
「……私?」
「汝が地上にて数多の記録を成したこと、我は知っている。だが、冥界は“空白”に耐えられぬ世界。数百年、数千年と積まれた記録が、誰にも触れられず放置されたとき──エルセディアは、自らを記録することを始めたのだ」
「自己記録……」
「そう。“記録者なき冥界”で、もっとも強い記憶を持つ魂が、空位を埋めようとした。そしてその魂は、己こそが“真の記録者”であると確信してしまった」
あやのは言葉を失った。
自分が冥界を離れ、龍界、魔界、精霊界を巡る間にも──
“記録”の座は空いていたのだ。
その空白が、古の教皇を蘇らせてしまった。
「冥王さま……それなら、もっと早く知らせてくれたら……!」
あやのの声は、震えていた。悔しさと、自責と、恐怖の狭間で。
冥王は、それに穏やかに頷いた。
「我とて、すべてを見通せたわけではない。だが、いまは明確だ。エルセディア四世の魂は、すでに**“記録そのもの”を侵食している**。放置すれば、いずれ冥界に刻まれたすべての歴史が、彼一人の物語となる」
あやのの背筋が凍った。
「世界の死者すべてが、“彼の民”になってしまう……」
「その通りだ」
冥王は、静かにあやのの肩に手を置いた。
「これは、戦ではない。“記憶の座”を巡る、書き換えと保持の戦い。汝に託す。かつて封じられた彼を、記録者の名において再び“記す”のだ」
あやのは、ゆっくりと頷いた。
責任の重さに潰されそうになりながらも、心の奥にある灯は消えなかった。
「……わたしは、戻ってきました。もう一度、冥界の記録を受け持ちます。でも、エルセディア様を“ただの悪”として記すことはしません。彼の記憶も、正しく見る。記録者として」
その言葉に、冥王は一瞬だけ微笑んだ。
「よい覚悟だ、真木あやの。その瞳がある限り、冥界はまだ崩れぬ」
冥王の玉座からの帰路、あやのの耳に、微かな祈りの声が届いた。誰かが、かつて教皇に向けた祈りを、再び思い出していた。
記録と信仰。
それは、時に救いとなり、時に呪いとなる。
だが──それでも、記す意味があると、あやのは信じていた。
冥界の夜が、また一段と深くなる。




