第十三章 欠落の谷
冥界は静寂だった。
それは死の静けさではなく、記憶が沈んだあとの“からっぽ”だった。
──音が、ない。
あやのは、星眼を閉じたまま最初の足音を刻んだ。
全身が冥界の重力に包まれる。重く、冷たく、かすかに指先が痺れる。
「……変」
あやのの感覚は、わずかな“歪み”を捉えていた。
通常なら、冥界に満ちる“魂の残響”──過去の囁き、未練の囁きが渦巻いているはずだった。
だが今は、それすらなかった。
無数の霊域が広がる冥都《ルオ=アン》。
あやのは、その中心にある記録者の聖域《シトレウムの階》に向かっていた。
だが──途中の“記録灯”が、すべて消えていた。
「……ここまでとは……」
記録灯とは、過去に死した者の記憶を写し、霊として冥界に灯すもの。
それが、根こそぎ失われている。
まるで、この界そのものが記憶を“喰われた”ように。
「エルセディア……教皇様が目覚めただけじゃない」
あやのはそう呟く。
──何かが、すでに始まっている。
最初の異変は、《無明の谷》で起きていた。
そこは、かつて冥界の叛徒たちが幽閉された領域。
ふつう、記録者でさえも容易に立ち入らぬ場所。
あやのは、道を逸れてそこへ向かった。
谷の入口に立つと、違和感は決定的になった。
光が、ある。
冥界において“光”とは、死者ではなく生者の執念の象徴。
本来なら存在してはならぬもの。
その光源を中心に、空間が不自然に歪んでいる。
あやのが歩を進めるたび、視界に奇妙な“像”が現れては消える。
──王冠をかぶった骨。
──倒れ伏す人々の影。
──焼かれる書物。
──燃える教会の尖塔。
「……記録が……時間軸の外で暴れてる……?」
これは、誰かの記憶ではなかった。
これは、“教皇”という存在そのものが、冥界に投影しはじめた“自己記述”だった。
「記録の強奪……!」
あやのは気づく。
エルセディア四世が、冥界の“記憶の根幹”を乗っ取ろうとしている。
かつて万人の信仰を集めたその魂が、死を経てもなお、自らを歴史の中心に書き換えようとしている。
「これは……戦いじゃない。“記憶”そのものの、塗り替えだ」
言葉を終えるより早く、あやのの足元の冥土が裂けた。
真っ黒な穴から、骨の指が現れる。
それは、虚空から伸びる“記憶なき死者”──教皇によって記録を消された者たち。
「記録者、排除」
ノイズのような声が響く。
刹那、あやのの星眼が開いた。
輝く藍と金の瞳が、一閃の光を放つ。
「記録されていないなら──私が、ここで刻む!」
あやのの声が、冥界に響いた。
その瞬間、消えかけていた霊灯の一つが、ふっと灯る。
たしかに、“何か”が始まっている。
そしてそれは、冥界だけにとどまらない“記録の改竄”の始まりだった。
冥界の空に、風が吹いた。
それは、死者の国にあってありえぬ兆し。
記録者が歩き始めたことによる、最初の“異変”だった。




