第十二章 冥行(めいこう)
朝の気配はまだ遠かった。
夜の帳が消え残る頃、魔界の温泉宿に灯る一つの明かり。
その部屋で、あやのは静かに着替えを終えた。
旅装は黒と青の礼服。
界を越えるに相応しい、記録者としての正式な衣。
胸元には、冥界から授かった認証の紋章が光を鈍く弾いていた。
「……ほんとに、行くのか」
背中から聞こえる、低く乾いた声。
梶原國護が、部屋の戸口に寄りかかっていた。
髪は濡れたまま、体にはまだ湯気が残っている。
あやのは振り返らなかった。
「うん。でも、ひとりで行くよ」
「護衛も無しで?」
「……冥界の門をくぐるには、“生者の音”が強すぎると障りになるって、冥王さまから。私は“記録者”として静かに渡るべきなんだって」
「あいつは本気で任せたんだな……」
梶原は、無言で部屋の奥に歩み寄り、あやのの肩をそっと撫でる。
その手は、いつものように大きく温かかった。
「せめて、幸は連れて行け」
「あの子は……門の外まで。一緒にいてくれる」
「……そうか」
彼の顔には、怒りも悲しみも浮かんでいない。
ただ、深く深く飲み込んだ想いだけが、夜の色のように沈んでいた。
階下に降りると、司郎正臣が既にロビーの椅子に座って煙草をくゆらせていた。
「冥界行き、午前四時、霊脈の境界からよ」
「うん、ありがとう」
「ひとつだけ忠告しとくわよ、あやの。──あそこは、“記憶”を食う場所よ」
「……わかってる。でも、それでも行く」
司郎は、火をもみ消し、立ち上がる。
「そっか。だったらもう何も言わない。戻ったらまた、建築の続きをやりましょ。あんたがいなきゃ、こっちは設計どころじゃないのよ」
「うん、すぐ戻るよ」
あやのは、小さく微笑んだ。
その瞳の奥に、星のような光が宿る。
門は、魔界と冥界のはざま──「常夜峡」に開かれた。
岩肌に沿うように伸びる狭い道を抜けると、そこに白い結界が揺れていた。
月も陽も届かぬこの場所で、唯一“音”のない場所。
「記録者よ。扉が開かれる」
結界の前に現れたのは、冥王直属の案内人。
顔のない影のような存在だったが、声は確かに届いた。
あやのは一礼し、振り返る。
そこには、梶原と司郎、そして耳を伏せた忍犬・幸がいた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、あやのの歩みを、静かに見守っていた。
白の結界をくぐる瞬間、あやのはそっと囁いた。
「……必ず、記録して帰ってくる」
その声は冥界の闇へと溶けていき、
瞬間、少女の姿は、結界の向こうへと消えた。
そこは、死と記憶が重なりあう場所。
“眠骨の教皇”が目を覚ました冥界の奥へ──
物語は、また深い闇の中へと進んでいく。




