第四十五章 湯けむり怪異と三人の建築士(+1幽霊)
宴もたけなわ──とはこのことだった。
遅くまで続いた夕食と語らいの余韻を胸に、それぞれの部屋に戻っていく出る事務所の面々。
ふすまの向こうで澤井教授は寝息を立て、司郎は持ち込んだスケッチブックに鉛筆を走らせていた。
そのころ。
「……ん?……音……?」
廊下を歩いていたあやのの耳が、ふと鋭敏に震えた。
ぴしゃ、ぴしゃ、ぴしゃ……
──濡れた素足で廊下を歩く音。
夜中の旅館。足音は一つだけ、確かに一歩一歩、近づいてきていた。
なのに姿が見えない。
「……出ちゃった?」
あやのはそっとつぶやいた。
翌朝。
「司郎さん、梶くん。ちょっと聞きたいことが」
朝風呂から戻ったあやのが二人に声をかける。
「ん?おはよう……何?また山形さんが女子湯覗いたの?」
「してないです」
「違います。夜中、誰もいないはずの廊下で、足音がしていました。音からして、かなり濡れてました」
梶原がぴたりと手を止めた。
「……床、濡れてた。朝一番、男湯前の畳の廊下。湯が垂れてるとかじゃない量でした」
司郎はハッとして、ノートを開く。
「なるほど……いいわ、調べてみましょう。どうせチェックアウトは昼だし、暇よね?」
「そのテンション、地縛霊探しじゃなくて朝市のノリですね」
調査開始。
あやのは女将にさりげなく「夜中の音について」尋ねた。
女将は表情を曇らせた。
「……聞こえましたか、やっぱり。たまにいらっしゃるんです、お湯に入りたくて。戦後すぐの頃、お子さん連れで泊まっていた方が、夜中に露天に落ちて……」
「あらま……」
司郎が呟いた。「成仏してなかったのね……それで?」
「姿は見えないけど、廊下を歩く音だけ残ってるようで……濡れた足音だけが、毎年この時期に……」
あやのが静かに、手を合わせた。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……お湯に、入りたかったんだね」
その晩。
宿にもう一晩の逗留を決めた一行。
湯の中、あやのは一人で露天風呂に入り、うたうように口ずさむ。
「おふろはね いいものね ぬくぬくしてね やさしいね」
その瞬間、誰もいないはずの反対側の湯船の端に、ふっ……と湯が波打った。
空気がすこしだけ、ぬるくなった。
「どうぞ」
あやのは笑った。目を閉じたまま、そっと語りかける。
「明日も晴れるからね。好きなだけ浸かっていってね」
その夜以降、旅館ではもう「足音」は聞かれなくなったという。
女将はぽろりと泣きながら、あやのたちに最上の朝食を振る舞った。
「『音の人たち』に会えて、良かったです」
司郎の部屋にて──
「あやの、あんた最近、だいぶ『あっち側』に慣れてきてない?大丈夫?」
「うーん。でも、ここにいるほうが、静かで気が合うかもしれません」
「いや、それちょっと心配なセリフよ」
山形さん(幽霊)はそのやり取りを壁から見て、そっと手ぬぐいで涙を拭いた。