第十章 波紋
第一の波紋──魔界・知識の塔にて
魔界中央都、北の端にある「知識の塔」。
この塔は、魔界の歴史・法・地図・魔法理論を一手に集約する中央文庫であり、外界との接触にも慎重な知識守たちが管理している。
その塔の地下三層、禁閲区域。
そこに、ひとりの文官が異例の通達を持って現れた。
「記録者・真木あやの殿より、直筆の記録の寄贈です」
知識守たちは最初、訝しんだ。
“名もなき魂”など、記録としては極めて不確かで、分類が難しい。
だが、その記録を一読した高位守のひとり──老齢の魔族が、眼鏡越しに眉をひそめ、そして声を震わせた。
「……この記録には、“力”がある」
「“力”?」
「記録とは、過去を綴る行為ではない。“残響を、未来へ響かせる”行為だ。これはまさに……名なき者を以てして、世界の魂を整える鍵となる」
記録は、慎重に複写され、閲覧指定を設けた上で魔界中の各地に分配された。
そして、“サカシラ”の名は──魔界の若き兵たちの間で、ひそやかに語られるようになった。
「名がなくてもいい。誰かを守る、その想いだけで、戦えるんだって」
第二の波紋──精霊界・風の王宮にて
風の精霊王のもとには、魔界からの記録物が定期的に送られている。
その中に紛れるように、「サカシラ」の記録が届いた。
風の王は、それを風の書架にかけ、静かに目を通す。
読むにつれ、王の頬を風が撫でた。
古の精霊たちが、わずかにざわめいた。
「……この者には、“名を持たぬ風”の加護があるな」
名を与えられぬまま、誰かの背を押し、影に立ち尽くす風。
それは精霊界で最も尊ばれる、無垢なる意思の象徴だった。
王はその書を複写させ、精霊界の若き風の使いたち──主に孤児や召喚不能の者に向けて贈った。
やがてそれは、精霊界の片隅に「サカシラの書」として定着し、
“風を読む者たち”の新たな教材として親しまれるようになっていった。
第三の波紋──龍界・龍仙洞にて
朱塗りの門をくぐり、金の文字の下、龍仙洞の奥で──
薬を調える龍の姿が、あやのの記録を手にしていた。
「これは……輪廻の気配、そして“無我”の香がするな」
読んだのは、月麗=龍王その人だった。
彼は記録の奥に宿る“志の残香”を見抜いた。
サカシラの魂が、もはや単なる個ではなく、界の縁を縫う“結び目”になりかけていることを。
龍王は記録を香へと写し取り、洞内の調薬室に散布した。
その香りを嗅いだ龍の子らは、誰とも知れぬ戦士の幻影を見たという。
炎の中、揺れる影。剣を持ち、背中で何かを庇い、ただ黙って立ち続ける男の幻。
その日から、龍界では“名を問うな、姿を見よ”という一句がひそかに交わされるようになった。
そして、記録者・真木あやのの元へ
あやののもとに、ひとつの花束が届いた。
魔界でも、精霊界でも、龍界でも見かけぬ、白く透き通る小さな花。
添えられた札には、たったひとことだけ。
「あなたの言葉が、今もどこかを守っています」
あやのは、それを静かに手に取った。
記録者としてではなく、ただの“あやの”として。
あの夜、忘れ橋の橋上で名をくれた魂のために、そっと微笑んだ。




