第八章 魔界・中央都外れの一軒家──静かな晩
夜。
三人が拠点としている魔界の一軒家は、中央都の喧騒から少し離れた高台にあった。
外では虫の声が弱く響き、温泉の湯けむりが遠く、霞のように立ちのぼる。
あやのは一室に籠もり、蝋燭の灯だけで机に向かっていた。
小さな窓から差す月光と、蝋燭の揺れる灯だけが紙を照らしている。
そこには、今日──妖怪の里の「忘れ橋」で受け取った、“名を持たぬ魂”の記憶が、あやのの胸の内にまだ熱を残していた。
彼の名は、最後まで語られなかった。
けれど、その願いは、あやのの中で確かに形を成し始めていた。
梶原は部屋の外で、静かに湯を沸かしていた。
音を立てぬように、火を弱める。
彼女の筆が止まらないように。
司郎はその様子を見て、ソファに寝転びながら煙草の代わりに木の枝をくわえ、ぼんやりと天井を見つめている。
「……死んだ者に“名をくれてやる”ってのは、けっこう大ごとなのよ。建築だって、そう。無名のまま風化させる建物と、誰かが名付けることで残るものがある。あやのは……あの子は、そういう“言霊”を使えるのよね」
司郎の声に、梶原は黙ってうなずいた。
やがて、あやのの部屋から、かすかな紙の音がする。
──筆が走っている。
記録・冒頭
(魔界中央都外れ・真木あやのの私室にて)
この記録は、かつて名を持たなかった少年のために書く。
彼は名を持つことを許されず、語られることなく、ただ“守る”ために生きた。
その場所は、魔界の戦火のはざま。
彼は、名もなき民を守り抜いた。誰に命じられたわけでもない。
彼が命を落とした日、守った者の数は三百を超えたという。
けれど、彼の存在は“記録”されなかった。
それが、政治的な理由なのか、誰かの策略か、それとも単なる“忘却”だったのか──今となっては、誰にもわからない。
ただ、彼は最後に願った。
「どうか、この手で守った人たちが、生きていけますように」と。
この願いが、廻り、次の命に繋がりますように。
記録者・真木あやのの名において、ここに記す。
筆を置いたとき、蝋燭の火が少し揺れた。
息を吐くように、静かに灯が落ちる。
その瞬間、あやのの部屋の扉が軽くノックされた。
「……お茶、入ったよ」
梶原だった。
あやのは小さく笑って、扉を開けた。
「ありがとう、梶くん。……ちょっと泣いちゃった」
「知ってる」
あやのは、湯気の立つ湯呑みを受け取り、すすりながら目を閉じた。
「……あの子が、“また巡り会えた”って思えるような、そんな名前を考えてあげたいな。名を記すって、ほんとは“生きてる証”なんだね」
「お前が言うなら、そうなんだろう」
梶原は、彼女の頭に手を置いて、ただそれだけ言った。
少し遅れて、司郎が部屋を覗き込み、
「“無名の英雄”ねえ。……ま、世界ってのはそういう人間に支えられてるのよ。名ばかりの王より、名もなき守人の方が、よほど偉いわ」
とぼけたように言って、キッチンで湯の残りを使って味噌汁を作り始めた。
夜は、まだ深く。
けれど、魔界の外れのこの家の中には、確かにひとつの命が、書き記され、守られようとしていた。
あやのの新しい記録帳の、一枚目には、こう記されていた。
「彼は、“名のない勇者”だった。けれど、この頁からは、彼は“ここに居た”と、証明される」




