第七章 記されざるものの魂
数日後、あやののもとに、一通の文が届いた。
差出人の名はなかった。
ただ、文面は、あの冥界の墨色の巻紙と同じ素材で綴られていた。
文にはこうあった。
「記録者・真木あやの殿
この魂は、冥王としての私には記せなかった。
けれど、あなたになら、きっと。
その者の名は、界には存在しない。
正確には、名を持つことを許されなかった。
されど、この魂は確かに“世界を変えた”
あなたがもし、その記憶を受け取る覚悟があるのなら、妖怪の里・北のはずれ、“忘れ橋”へ。
そこに、魂の残響が眠っている
――冥」
あやのはすぐに、司郎と梶原にだけ簡単に事情を告げて出立した。
ふたりとも何も問わなかった。ただ、「無茶するな」と言って送り出した。
そこは、過去を“消す”ために使われた場所だった。
名を失った者、追放された魂、あるいはこの世で名乗る資格を持たなかった者たちが、橋の下に棲む流れへとその痕跡を託したという。
あやのが橋に足を踏み入れた瞬間、風が止まった。
世界が、音を止めた。
すると、橋の中央に、誰もいないはずの場所に──ひとつの“影”が立っていた。
それは人の形をしていたが、輪郭があいまいで、はっきりとは見えない。
ただ、その影があやのを見て、口を開いた。
「……ここに、来たのか」
声は、年齢も性別も感じさせない。
ただ、静かで、澄んでいて、泣きたいほど美しかった。
「あなたが……“記されなかった魂”?」
「名を、持たなかった。
名を持ってはいけなかった。
……私は、記されるべきではなかったはずなんだ」
「でも、あなたは世界を変えた。閻魔くんがそう言ってた」
「そうだろうか……」
影は、一歩、あやのに近づく。
「私は、誰かのために生きた。
けれど、“名乗ること”も、“残ること”も許されなかった。
あらゆる界に名を刻むことを、……自ら拒んだ」
「それでも、残ってる。ここに」
あやのは胸に手を当てた。
「あなたの声、ちゃんと届いてる。誰にも届かなかった“沈黙”の形で──でも、確かに残ってる。私は、あなたの“名のない記録”を記す。誰にも許されなかったことを、私が引き受ける」
影が、ふと顔を上げた。
輪郭が少しずつ、明確になっていく。
それは──まだ少年と呼べるほど若い姿。
焼け焦げた衣。誰かを庇ったまま倒れたような、記憶の残滓。
「……君に、託してもいいのか」
「うん。あなたの声を、もう誰も聞けなくても。
私は記すよ。“誰だったか”じゃなくて、“何を願ったか”を──」
風が、再び流れた。
影の少年は、初めて、穏やかに笑った。
「……ありがとう」
その瞬間、彼の姿は光の粒となって舞い上がり、あやのの胸へと吸い込まれていった。
彼の記憶が、沈黙が、願いが──すべて、ひとつの“物語”となって、記録者の手に預けられた。




