第五章 妖怪の里──帰還の夜、風灯の庭にて
冥界から戻ってきたあやのたちは、ぬら爺の庵には戻らず、ひと晩だけ、かつてあやのが育った古い家に泊まることになった。
すでに人の気配はない。
今は空き家となったその小さな家。
けれど、誰かの記憶だけが壁や畳に染みついたように、そこは確かに“あやのの帰る場所”だった。
夜、庭の風灯だけが小さく揺れ、虫の声が涼やかに響く。
あやのは縁側に腰を下ろし、両膝を抱えて静かに空を見上げていた。
その横に、梶原が無言で座る。
ふたりの間には何の言葉もなかった。
けれど、それは沈黙ではない。
あやのの胸にあるものを、無理にこじ開けようとしない梶原なりの“寄り添い”だった。
やがて、あやのがそっと口を開く。
「……閻魔くん、変わってた。でも、変わってなかった」
梶原はうなずきもせず、ただ聞いていた。
「きっと、ずっとひとりで頑張ってたんだと思う。私みたいな子の声を、ちゃんと覚えててくれて……玉座にいながら、それを言ってくれる人なんて、そういないよね」
あやのは、小さく笑った。
「だから、泣きそうになった。少しだけ、子どもに戻っちゃった気がしてさ」
梶原は、懐から包み紙にくるまれた飴を取り出すと、無言であやのに差し出す。
「……ありがとう」
ぽとんと口に含み、しばし味を確かめるように転がした後、あやのはぽつりと言った。
「梶くん、怒ってた?」
「……」
「嫉妬してた?」
梶原の背筋がぴんと伸びる。
「してない」
「うそだー」
あやのが笑うと、梶原はますます無口になった。
けれど、その頬がほんのり赤くなっていることを、彼自身は気づいていなかった。
その様子を──室内の明かりの向こうから、司郎が煙草をふかしながら見ていた。
「まったく……かわいいわねぇ、あのふたり」
煙の向こうで、司郎はひとりごちる。
「死を見つめて帰ってきて、ようやく“生きてる”って顔になったじゃない、あの子……」
どこか誇らしげに、嬉しそうに。
その夜、あやのはひとつの夢を見た。
灰白の霧の中、輪を描いて廻る光の粒が、やさしく彼女の指先に触れていく夢。
誰の言葉でもない、小さな“沈黙”たちの、ありがとうという声が、風のように彼女を包んでいた。
目が覚めたとき、あやのはそっと呟いた。
「……記そう。私だけの言葉で」
朝の光が差し込む縁側。
その静かな決意の先に、次の記録が──待っていた。




