第四章 冥王庁・石の玉座の間にて
あやのの前に広がる冥界の霧は、いつしか穏やかに波打ち始めていた。
あれほど冷たく感じた空気も、今は胸の奥に温かさを残していた。
冥王──閻魔は、最後にもう一度だけ、彼女の名を呼んだ。
「真木あやの」
その声は、今では“記録者”となったあやのに向ける、敬意と愛情の込もったものだった。
「……お前がここまで来たからこそ、伝えておきたい理がある」
あやのは黙ってうなずく。
冥王は、袖をゆったりと翻し、空中に浮かぶ記録巻物のひとつを手に取った。
そこには、円を描くように淡い光が走っている。
「“死”は、終わりではない。──いっときの、旅立ちにすぎないのだ」
あやのはその言葉を、深く胸に刻み込むように聞いていた。
「この界で語られるものに、『輪廻の輪』という概念がある。魂は止まらない。静かに廻りながら、記憶と想いを抱いて、また生の門へと還っていく」
「……生まれ変わる、ということ?」
あやのの問いに、閻魔は穏やかにうなずいた。
「そうだ。だが、それは単なる“生まれ変わり”ではない。“終わりの始まり”でもある。かつて誰かが笑い、泣き、誓い、喪ったものすべてが、廻る輪の中で形を変え、再び出会う」
そのとき、巻物からこぼれ落ちるようにして、小さな光の粒がいくつも宙に舞い上がった。
それはまるで、名もなき命たちの記憶──どこかで歌われ、語られ、忘れられかけていたものたちだった。
「だからこそ、“記録”は意味を持つ。廻るものは、繰り返すのではなく、“響き”を持って還る。記され、想われ、祈られた記憶は、次の命の礎となる」
あやのの胸が、震えた。
(──私は、何のために“記録者”として在るのか)
その問いの答えが、ようやく形になりかけていた。
冥王は巻物をそっと閉じる。
「かつて、お前には名前がなかった。言葉も、声も、まだ持っていなかった」
あやのは、そっと口元をゆるめた。
懐かしさと、ほんの少しの涙を堪えながら。
「だが今や、お前は“記録者”だ。想いを記し、魂に寄り添い、失われかけた声を紡ぎなおす者として──」
閻魔は、玉座を降りる。
冥王の面を外すように、その表情から一瞬だけ、幼き日の面影が透けて見えた。
「私は、それが誇らしくて。とても、とても嬉しいよ」
その声は、もう“冥王”のそれではなかった。
──ただの、かつての“お兄ちゃん”の声。
「またね、小さいの」
あやのは、喉の奥まで込み上げるものを押し込めながら、ぺこりと一礼した。
「うん。……またね、閻魔くん」
光が揺れた。
霧のむこう、冥界の門が開かれていく。
あやのの背に、司郎と梶原の気配が近づく。
静かに、静かに、あやのたちは“生”の世界へと帰っていった。
残された冥王は──誰にも見られぬその場所で、そっと目を閉じ、名もなき魂たちの記録に、またひとつ筆を加えていた。




