第三章 冥界・冥王庁 ──灰と灯の宮
無音の空間に、あやのの足音だけが響いていた。
司郎と梶原は少し後方で静かに彼女の背を見守っている。
二人とも口を開かない。
この場において、“生者”の言葉は意味を持たぬと、自然と理解していた。
玉座の前に、一脚の椅子があった。
用意されたものだとすぐにわかった。
──自分のために。
「……久しぶりだね。閻魔くん」
あやのが、静かにそう言った。
声が石殿に吸い込まれるように消えていく。
冥王は、少しだけ目を細めた。
少年だったころのやわらかな眼差しが、ほんのわずかだけ、そこに残っていた。
「記録者、真木あやの」
その名を、あえて形式的に呼ぶ。
「ようこそ、界へ」
あやのは、その声の底に、かつての“兄”の響きを聞き取っていた。
そして一歩、玉座に近づく。
「ここまで来るの、ちょっと……怖かったよ」
「当然だ。この界は“終わり”を受け入れた者の場所。“象徴”の名を持つ者が来るには、早すぎる」
「でも、来たよ。あなたに会うために」
冥王の眉が微かに動いた。
「……その言葉に、“幼馴染”として応えることはできない。私は冥王だ。生と死を隔て、魂を導く責を負っている」
「わかってる。……でも、私は記録者だよ。あなたが見送ったすべての“終わり”を、記さなきゃいけない立場なの」
そのとき、冥王の背後に浮かぶ幾重もの記録の巻物が、一枚、ふわりと宙に舞った。
それは、名前も顔も持たない誰かの“最期”を記したものだった。
「……私は今、わからなくなってるの」
あやのは、少しだけ視線を落とした。
「この世界に、“終わり”なんてものが本当にあるのか。“死んだ”とされる誰かの思いが、言葉が、まだ世界に残り続けるなら……それを“死”と呼んでいいのか」
冥王は答えない。
ただ、彼女の問いを、沈黙のなかで受け止める。
あやのはもう一歩近づいた。
「──教えて、閻魔くん。あなたは、“死者の声”をどう記しているの?」
そのとき。
冥王は初めて、あやのの目を真っ直ぐに見つめた。
それは、冥王の威圧でも、役目としての視線でもなかった。
「私は、“声”を記すのではない」
「……え?」
「“沈黙”を、記しているのだ」
その言葉に、場の空気が微かに震えた。
「声は、いずれ風に乗る。記録され、誰かに届く。けれど、沈黙は違う。残らない。誰にも見えず、届かず、ただ消える」
「……」
「だから私は、沈黙を記す。誰にも届かぬ死の間際の、名もなき涙や、息の音や、思い出しそうで思い出せない歌の断片を……記す。そうでなければ、死はただの“忘却”になる」
あやのは、目を見開いて立ち尽くした。
(──この人は、今も、ずっと……)
「閻魔くん……」
彼は、ゆっくりと手を伸ばすと、あやのの胸元に触れない程度に指先を浮かべて言った。
「記録者。お前にしか、届かない声がある。……“生きている”お前にしか、掬えない沈黙がある。どうか、それを……記してくれ」
それは命令でも、役目の託宣でもなかった。
ただの、祈りだった。
あやのは──うなずいた。
「……うん、わかったよ。閻魔くん」
司郎が目を細める。
梶原は言葉なく、ただそのやりとりを目に焼き付けていた。
そして、冥王は静かに玉座へと背を向け、最後に一言だけ、少年のころの名残のように呟いた。
「……また、戻ってこなくていい場所だ。できれば、な」
その背は、ひどく寂しげで──
だが、誰よりも優しかった。




