第二章 冥界(さかい)──“死を見送る界”
冥界とは、死者の魂が最後に通る“通過点”であり、記録と判定と赦しの場でもある。
生と死の境に横たわるこの界は、時間の流れが歪み、音が吸い込まれるような静けさに包まれていた。
空はない。
あるのは、上も下もわからないほど広がる灰白色の霧と、漂う灯。
地面は光を持たず、ただ足の裏に感覚だけを伝える冷たさ。
無数の橋がある。
古びた石の橋、枝のような黒い橋、光の糸で編まれたような橋。
それぞれの橋を渡る魂は、誰に命じられるでもなく、自ら選び、自ら歩く。
それを見守るのが、冥界の主──冥王である。
冥王──閻魔
彼はかつて、ぬらりひょんの庇護の下、妖怪の里であやのと育った少年だった。
言葉を持たなかったあやのに、初めて「声」を教えた者。
無表情で静かだったが、内には炎のような正義感と、限りなく優しい心を宿していた。
──そして今。
冥王として座すその姿は、かつての面影を保ちながらも、はるかに威厳を増していた。
長い黒髪は後ろで束ねられ、青墨のように冷たい眼を持つ。
衣は黒と緋の袍で、胸元には金で織られた六道の象徴。
肩には、異形の鴉が一羽──すでに言葉を話す精霊と化しており、常に主の代弁者を務めている。
その眼差しは、生者を裁くものではない。
死者を見送り、正しく次の理へ導く、深い悲しみと慈しみを湛えたものだった。
彼のまわりには、魂の記録を記した巻物が浮かび、絶えず時の文字を編んでいる。
冥王の庁は、巨大な環状の石殿の中心にあり、周囲には“終わり”を迎えた数多の魂たちが静かに佇んでいた。
叫びも、涙も、怒りもない。そこにあるのは、静かに降り積もる“受容”の空気。
そして──その玉座の前に、一つの椅子だけが用意されていた。
記録者が来ると知っていたように。
冥王は、誰にも告げずその椅子を置いた。
記録を記す者、かつて声を教えた“あの子”が、いつかここを通ることを知っていたのだ。
鴉が声を放つ。
「冥王──記録者、界に入界しました」
冥王は目を伏せ、短く返す。
「通せ。……すべて、記されるべきだ」
その声は、少年だったころと変わらぬ、あやのにだけ向ける特別な声音だった。




