第四十四章 鳴かぬなら、湯で鳴かせようホトトギス
「お〜い、出発するよ〜! 司郎バス出るよ〜!!」
あやのの声が響く午前八時。
出るビル前には、梶原が運転するレンタカーのミニバス。助手席には既に司郎が鎮座し、朝からおしぼり片手に日焼け止めを塗っている。
「いや〜ん、やっぱりこの時期は紫外線がねぇ……あら、梶原!その運転手キャップ、変よ!昭和なの!?」
「借りました」
「返してきて。違う意味で事故るわよ」
小旅行の目的地は、東京から車で二時間ほどの山間の温泉宿。
共鳴の回廊プロジェクトの慰労と打ち上げを兼ねて、澤井教授の提案で決まった。
その教授はというと、後部座席で旅館のパンフレットを開きながら、満面の笑みで言った。
「いやぁ〜〜露天風呂!露天風呂!
若い頃はこういうの、週三で行ってたんだ。学生連れてね。うん。合宿って名目でな?」
「完全に教授が一番楽しんでますね」
あやのが小声で笑うと、助手席の司郎がふいに後ろを振り返る。
「アンタ、まさか水着持ってきてないわよね?露天に持ち込んだら怒るわよ」
「水着!?持ってません!」
「持ってたら逆に怖いわ!!」
澤井教授もツッコミを入れた。
山の空気は澄んでいた。
到着した温泉宿は、古民家を改装した趣ある建物。立派な梁と土間が残り、建築好きの司郎はしきりにうなっている。
「……これは……天井、直してないわねぇ。構造丸出しでよく保健所通ったわね。いい意味でやばい」
「悪い意味では?」
「落ちると死ぬわ」
「最高ですね」
あやのは笑っていた。
部屋割りは、あやの&澤井教授の和室(ふすま仕切り)、司郎&梶原の別室。
なぜか山形さんの幽霊がバスに便乗してきていたのは、気づかなかったことにされた。
〈入浴タイム〉
湯けむりの中、男湯では静かに──と思いきや。
「おっほっほっ、見てよこの天然石の湯船!本物よ!?本物の十和田石よ!梶!これ!触ってみなさいよ!!」
「わかんないです」
「触って!!!」
男湯では、司郎が完全に旅館レポーターになっていた。
梶原はその横で、完全に無言で肩まで湯に沈んでいる。
「あ〜……無だな……」
「何がよ」
「この湯……無になれる。資格も、図面も、全部流れていく……」
「あらやだ、悟り開いちゃったの!?」
一方、あやのは貸切風呂を一人で静かに楽しんでいた。
ちゃぷんと音を立て、風がさやさやと揺れている。
ふいに、水面が揺れて、気配がひとつ──
「……山形さん、さすがにここまで入ってきたら怒りますよ?」
カラン。と桶が勝手に倒れた音がした。
夜の宴会では、澤井教授が学生時代のエピソードを延々と語り、あやのは酢の物を人知れず誰よりも食べ尽くした。
司郎は地酒を一口でギブアップ。梶原はその隣で、ひたすら豆腐を食べていた。
「おまえ、修行僧か」
教授がつっこんだ。
「はい」
即答だった。
深夜。
ふすま越しに、あやのと澤井教授の低い会話。
「……楽しかったですか?」
「うん。音ってね、こういう何気ない時間の“空気”にも、ちゃんとあるんだよ。
喋らなくても、ちゃんと“音楽”になる。今日の宴会、最高の交響曲だったな」
あやのは、にこっと笑った。
その笑みは湯気よりも柔らかく、風鈴のように小さく鳴っていた。