新章冥界編第一章 界(さかい)への道程、冥界への旅路の途中
苔むした石畳を、三人の影が歩いていく。
冥界へと繋がる入口は、妖怪の里の奥地にある洞穴から、さらに幾層も下った先に存在していた。
しばらく沈黙が続いた後、あやのがぽつりと呟くように言った。
「……閻魔くんはね、私の幼馴染なの」
その名を出すのは、どこか懐かしさと痛みの混じった声音だった。
「私がまだ……ちゃんと喋れなかったころ。毎日、そばにいてくれたの。言葉も、文字も、数も……あの子が全部教えてくれたのよ。お兄ちゃん、みたいな存在だった」
「……」
その瞬間、梶原國護の足取りがわずかに乱れた。
気付かぬふりをしたあやのの目の端で、確かに──動揺が伝わった。
梶原は顔を上げる。
口には出さないが、その名を初めて聞いた男の存在に、胸の奥がざらついた。
(幼馴染──“教えてくれた”男、か)
それが誰であれ、あやのの記憶に深く刻まれた者なのだ。自分の知らぬ“あやのの原点”に触れた気がして、嫉妬という感情が顔を出す。
司郎はというと、そんな梶原の横顔をちらりと見やり、くつくつと喉の奥で笑った。
「やだぁ梶ちゃん、顔こわばってるじゃないの。初恋の相手でも出てきた気分かしらぁ?」
「……そうじゃない」
「ほーぉ? そりゃ残念。あたしはその“閻魔の坊や”にちょっと興味湧いてきたわ。冥王を継いだってことは、ただの妖怪じゃない。あやのに読み書き教えるくらいだから、頭も切れるんでしょ?」
司郎の目は、既に冥界そのもの──そしてその支配者である「閻魔」に向けられていた。
探究の目。設計者の目。未知を楽しむ、科学者のような静かな好奇心。
あやのは一瞬、歩みを止め、手に触れた岩肌に指先を当てた。
「閻魔くん、今は“冥王”って呼ばれてるけど……きっと、変わってないと思う。誰よりも律儀で、優しくて、ちょっとだけ……お節介」
ふっと笑う。
「私が“生きること”を教えてもらったのが、ぬら爺なら……“世界の仕組み”を教えてくれたのは、閻魔くんなの」
風がひゅうと吹き抜け、洞の奥から、遠くに低い鐘の音が響いた。
「冥界は、死者の道を見送るところ。けれど、あの子の理は、きっと“終わり”ではなく、“記憶”を守ることだと思うの」
梶原は、何も言えなかった。
ただ、あやのの横顔を、まるで誰かに奪われるかのような不安で見つめていた。
司郎は、気配だけでその心の揺らぎを感じ取り、肩を竦めた。
「……やれやれ。こっちの鬼さんも、ずいぶん難儀な恋路ねぇ。冥界で三角関係なんて、シャレになんないわよ?」
「……恋じゃない」
「はいはい。そういうことにしとくわァ」
冥界の門は、もうすぐそこにあった。
金属のような光を湛えた石扉。その向こうで、かつて“お兄ちゃん”だった少年が、どんな眼で、あやのを迎えるのか──
それはまだ、誰にもわからなかった。




