補章:ぬら爺からの便り
――あやの様よ、そこに在るか
その日、朝の陽が丘の屋敷に差し込む頃。
司郎が何気なく郵便受けを覗いて、ひときわ風変わりな封筒に眉をひそめた。
「……達筆すぎて読めやしないわ。こりゃ妖怪筋からね」
梶原はすぐ察した。
「ああ、それ、妖怪の里だ。ぬら爺からだな」
あやのが手に取り、封を切る。
中から現れたのは、懐かしい墨の匂いのする巻紙だった。
筆致は悠々たる曲線で、ところどころ“ふにゃり”と力が抜けている。
だが、どの文字にも独特の気配があった──まるで、本人が喋っているように。
あやの様よ
あれから幾星霜(いや、実際にはそんなに経っとらんが)、
そちらでは元気にしとるかの。
わしはまあ、元気じゃ。
ほれ、例の庭の金木犀がまた狂ったように咲いての、
つい口に含んで渋かったわい。
お正月様もお変わりない。あの獣は時を食むように眠っておる。
夢の中で、またおぬしのことを呼んどったよ。
「よく生きておる」と、わしに言うた。
わしは笑った。「当たり前じゃ。あの子は“記録者”ぞ」とな。
風露のことは、知っておる。
おぬしの旅路は、あやかしどもにも囁かれておるのじゃ。
ほんにようやった。
だが、よいか──
記録とは、過去に寄り添う技。
魔法とは、未来に橋を架ける術。
どちらも、ただ“在る”ためにある。
己を削るな。全てを背負うな。
“無理に意味を与えなくとも、美しさは存在する”。
わしがかつて、おぬしを抱いて言うたろう。
「泣きたいときは、泣いてよい」
今も変わらぬ。泣きたくなったら、この便りを開けばよい。
声にせずとも、わしが聞いとる。
……それとな。梶の鬼っ子、案外ええ目をしとる。
肩に爪痕を残すくらい、しっかり掴んでおれ。
あと、司郎の坊主にもよろしく。
相変わらず器用すぎて人生ヘタクソそうじゃ。
あやの様よ。
わしの娘。
わしの誇り。
……また、会おう。
ぬらりひょんより
とある月の夜に記す
あやのは、読み終えた巻紙をそっと胸元に抱きしめた。
風が、ふわりと揺れた。
まるでぬら爺の笑い声が、風に乗って届いたかのようだった。
「……うん、また帰るよ。ちゃんと、帰るからね」
その声に、幸がくぅんと鳴いた。
そして、少しだけ涙ぐんだその横顔を、梶原はなにも言わず見つめていた。




