第九章:記録者の還る場所
朝焼けは、遠い山の端に薄桃色を落としながら、魔界の中央都の外れにある小さな屋敷の屋根をそっと照らしていた。
風がやさしく、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
あやのと梶原は、静かに門をくぐった。
長い旅を経て、ようやく帰ってきたのだ──自分たちの家へ。
離れの窓からは、もう湯気が上がっていた。
「……あら、旅の土産は何かしら?」
声の主は、坊主頭に割烹着姿の司郎だった。
片手には急須、もう一方には魔界新聞。
どう見ても「定住」している。
「お帰り。出るビルが懐かしくなるほど、魔界に根付いたじゃないか、司郎さん」
あやのが呆れ笑うと、司郎は胸に手を当てて芝居がかった溜め息をついた。
「まーたあたしの美貌と手料理が恋しくなったのね? ……というか、アンタら、顔に“旅の疲れと何かの達成感”がべっとり張り付いてんのよ。どんだけ濃い仕事してきたのよ」
「……濃すぎて、もう二度と行きたくないです」
あやのは苦笑しながら、旅の間ずっと肌身離さず抱えていた器──**“対話の器”**を、そっと棚の奥に置いた。
その夜、久しぶりに湯を張り、三人で囲む晩餐は素朴な鍋だった。
梶原が無言で箸を伸ばし、司郎がそれを見て呟く。
「……少しは顔がやわらかくなったじゃない、梶原。あやのを背負い続けた苦労が、やっと報われたって顔してるわ」
「……背負ってたんじゃない。ただ、そばにいただけだ」
「まったく。素直じゃないのは相変わらず」
司郎はそう言って、あやのに湯飲みを差し出した。
茶葉の香りが、じんわりと心をほどく。
「……あなた、あたしに何も言わず旅立ったわね。
でも、器を持って戻ってきた。それで十分」
あやのは、湯気の向こうで微笑んだ。
「司郎さん。行ってよかったって、今はそう思ってるの」
「そりゃそうよ。だってあんた、“誰かのための器”を持ってるもん」
梶原が、それまで黙って聞いていたが、ぽつりと言葉を添えた。
「……あれはもう、戦いのためのものじゃない。
ただ、“声を受け取る”ための器だ」
「記録って、そういうもんだろう。
抗うためじゃなく、伝えるため。
それを分かってて、それでもあんたたちは持って帰ってきた。──本当に、偉いわよ」
司郎は急須を湯に戻し、カチリと蓋を閉じた。
その音は、どこか**“章を閉じる”**ような響きだった。
その晩。
あやのは一人、書斎の片隅にある棚の前に立った。
そこには、旅のあいだずっと守ってきた器が、静かに鎮座していた。
彼女は、そっと両手を添える。
「……風露。わたし、またきっと誰かに出会うと思う。
まだ名前を持たない声や、忘れられそうな記憶に」
「その時は、また、この器を借りるね。
でも今日は、ちょっとだけ、眠らせてあげる。
ありがとう。“あなた”のおかげで、わたしは……」
小さく笑った。
「わたしは、もう迷わない」
夜。
ふたりの部屋に戻ると、梶原が寝床の灯りを落とす直前、ぽつりと聞いた。
「──お前は、本当に帰ってきたんだな」
あやのは、布団の中で彼の腕に触れながら答えた。
「うん。ただいま。 “記録者”でも、“象徴”でもないわたしに、ちゃんと戻ってきた」
そして小さな声で続ける。
「帰る場所があるって、すごく、ほっとするんだね……」
梶原はその言葉に、何も返さなかった。
ただ、あやのの肩を引き寄せる腕の力が、わずかに強くなった。
外では、魔界蛍がふたたび舞っていた。
あの小川の小道に沿って、夏の夜が静かにめぐっていく。
世界はまだ騒がしく、誰かの声は今も失われている。
けれど、その声を記そうとする者が、確かに、ここにいる。
──記録者は、還った。
声を受け止める器とともに。
そして、明日がまた始まる。




