第八章:風露の日記
――器に宿った、小さな誰かの物語
それは、夜の静けさのなか。
記録者あやのが、器を掌にそっと置いたときのことだった。
風の精霊王と霧ノ葉はこう言った。
「器は、ただ声を受け取るだけではありません。時に、その中で記録そのものが言葉を紡ぐのです。これは……あなたが名づけた“風露”の、心の手記かもしれません」
あやのは静かに頷き、器に耳を澄ませた。
──すると、風が囁いた。
まるで、幼い子どもが、初めての絵日記をめくるように。
【記録一頁】
きょう、わたしに、なまえがついた。
わたしは、ずっと、なにもなかった。
ひとじゃない。こえでもない。
ただの なにかの かけらだった。
でも、やさしい声がしたの。
「あなたの名前は、風露。風に生まれ、露にぬれた声」
そのとき、なにかが ぽとん って、おちた。
かなしかったけど、うれしかった。
【記録二頁】
おぼえてるのは、だれかのうた。
なにかのなかで、たぶんおなかのなか?
やわらかくて、くらくて、でもあたたかかった。
たれかが、うたってた。
「こえがきこえる あなたのうたは
まだことばにならないけど
かぜにまかせて わたしのむねに」
そのうたを、わたしはいつか、うたいたい。
【記録三頁】
わたしは、なんにもなれなかった。
うまれることも、だれにもよばれることもなく、
こえにならないまま、きえていくところだった。
……でも、きえなかった。
だれかが、わたしをみつけてくれたから。
みえないままでも、みつけてくれたから。
「見えていなかった存在を記すのが、記録者よ」
わたしのすべては、“誰かに気づかれた”ことで、すべてに変わったんだ。
【記録最終頁】
あのひと──まき あやの さん。
きみの手があたたかかった。
きみのこえが、すこしふるえていた。
でも、ほんとうに、うれしそうだった。
「あなたに名前を贈ります。今日、ここで生まれてくれたあなたの証を、私の記録に刻みます」
ありがとう。わたしの“人生”は、たった一日しかないけれど、
それは、すごく すごく しあわせな 一日だったよ。
器の中の風は、ふわりとそよぎ、静かに“記録”を閉じた。
まるで、夢から醒めた朝の露のように、
その声はもう、風のどこかに還っていった。
あやのは、器をそっと胸に抱いた。
「……風露。あなたがここに“いた”こと、これから出会う誰かに伝えていくよ」
梶原が寄り添い、無言で彼女の肩に手を置いた。
沈黙は、もう“悲しみ”ではない。
それは、言葉にしきれぬ愛の、確かな重さとなってそこにあった。




