第七章:空哭の源 ― 祈りの届かぬ場所で
それは、どの界にも属さない場所だった。
風も吹かず、水も流れず、火も灯らず、地も芽吹かず、光も差さず、闇さえ存在を拒んだ。精霊王たちですら、その存在を明確に語らなかった“外部”──
そこが、《空哭》の源だった。
風の王と霧ノ葉は、あやのに一枚の葉を託した。
「この“封風の葉”は、精霊六王の意志を束ねたもの。お前だけが、そこへ到達できる」
あやのは対話の器を胸に抱き、梶原とともに、地の界と闇の界の裂け目にあるとされる**“無の門”**へと向かった。
誰もが記録を拒んだ場所。
誰ひとり名を呼ばれなかった空間。
梶原が、あやのの手を握る。
「……ここまで来たな。お前の旅のすべてが、この先にある」
あやのは頷いた。
「記されなかった声に、届くかどうか。器はそのためにある。……怖いけど、行ってきます」
“無の門”が、音もなく開いた。
中に満ちていたのは──音のない絶叫だった。
その空間は、**「忘れられた記録たちの墓所」**だった。
風景などない。ただただ、**喪失された“記録の断面”**が漂っていた。
・記す直前に破られた書
・呼ばれぬまま失われた名
・祈りに届く前に死んだ声
・抱かれることのなかった愛
それらが、断片のまま、漂い続けていた。
そして──その中心にあったのが、“空哭”だった。
それは形を持たない。
ただ、叫びの連なりのような存在。
意味をなさないはずのそれが、**圧倒的な“欠落の気配”**としてそこにあった。
あやのが器を掲げると、空哭がわずかに反応した。
「……届くの? あなたに」
返答はない。
だが、器が微かに震えた。
あやのは、静かに語りかける。
「あなたは……ただ、声にしてほしかったんだよね。記録されることも、誰かに呼ばれることもなく、ただ“ここにいた”って……それだけを」
空哭が──泣いた。
音のない、痛切な、記録にもならぬ泣き声。
その瞬間、器が眩い光を放った。
中から、六つの核がふたたび現れ、それぞれの界で出会った声たちが、
ひとつの“合奏”となって空間に響く。
火は叫び
水は祈り
地は刻み
光は照らし
闇は抱き
風は──語った。
あやのの声が、それに重なる。
「……あなたの声を、私は聴いた。ここに、確かにいた。それを、わたしが記します。誰かに読まれなくても、聞かれなくても、あなたの声はもう、消えない」
器の光が、空哭の存在の中心を貫いたとき──
そこには、ひとりの子どもの姿が浮かんでいた。
名前も、顔も、性別もわからない。
ただ、泣きながら、あやのを見上げている。
あやのは、ひざを折り、その子の目線に合わせた。
「ねえ。あなたの名前、教えて」
子どもは、涙をこらえるように首を横に振る。
「……そう。じゃあ、わたしが、呼んでいい?」
静かに手を伸ばす。
星眼が、その子の中にある“最初の言葉”を探る。
そして、語る。
「“風露”。あなたの名前は、今日、ここで生まれた。あなたは、空哭なんかじゃない。風に泣いた子。風に、届いた声」
その瞬間──
“空哭”の気配が、ふっとほどけていった。
それは鎮めでも、封印でもなかった。
ただただ、名を与えられた存在が、世界に記録されたという事実。
器が、静かに閉じる。
子ども──風露は、あやのに微笑み、光の粒となって消えていった。
あやのは、涙を拭って立ち上がる。
梶原が、変わらぬ温もりで手を取った。
「終わったのか?」
「ううん。やっと……始まっただけかも」
記録されなかった声を、どう記すか。
この器を使って、どう世界と“対話”するか。
それはまだ、途の途。
でも──空哭は、もういない。
名を呼ばれなかった声は、いま、世界に届いた。




