第六章:風の界(再) ― 対話の器、完成へ
風の界へと還ったのは、夜明け前だった。
六つの界を巡り、それぞれの喪失のかたちを記したあやのは、
そのすべてを、今、風の輪に還そうとしていた。
風は変わっていた。
沈黙していた森に、風が通いはじめている。
止まっていた樹々の葉が揺れ、かつて“声”を失っていた風の流れが──鼓動を取り戻していた。
あやのと梶原は、再び**霧ノ葉**のもとへ向かった。
彼女は、風に髪をなびかせながら、すでに待っていた。
「……よく、還ってくれました」
あやのは、胸元から六つの“記憶の心核”を取り出す。
火の界:焦熱の芯
水の界:澄音の滴
地の界:堅結の核
光の界:映魂の欠片
闇の界:無声の珠
風の界(記録者の記憶そのもの)
「記録とは、どこかに“在った”という、ただそれだけの証。
失われたものに、もう一度名前を贈ることができるなら──
わたしは、この旅を記します」
風の輪の中央に、六つの核が配置される。
霧ノ葉が手を差し出すと、風が巻き、ひとつずつを包み込む。
「記録者よ。これらの記憶は、お前を通して見つめられたもの。記された内容だけでなく、“お前がどうそれを見たか”──そのまなざしごと、器の芯とする」
あやのの星眼がゆっくりと開き、風の核に触れた。
瞬間──
六つの界の記憶が、音もなく彼女の中に“再生”された。
火の声、水の嘆き、地の沈黙、光の影、闇の名もなき叫び……
そして、それらを抱きしめてきた、自身の声。
全てが、ひとつの風に溶け合っていく。
あやのの掌のなかに──
ひとつの器が、形を成しはじめた。
それは楽器のようでもあり、燈台のようでもあった。
名もなき者の声をすくい上げ、言葉なきものに形を与える、
“対話の器”。
風の精霊たちが、その周囲を静かに舞う。
霧ノ葉が囁いた。
「風は、言葉になる前の声。お前の器は、“まだ言葉にならなかった誰か”に届くための、始まりの道具」
「これは、記すためだけじゃない。……聴くための器なんだ」
あやのは、確信を持って言った。
「記録は、ただ遺すものじゃない。記されたことで、ふたたび出会えるようにするもの」
梶原が、そっと彼女の肩を抱く。
「……それは、あやのにしかできない。お前がこの界にいてくれて、ほんとうによかった」
夜が明けていく。
風の輪の上空、朝日が差し込み、霧がゆっくりと溶けていく。
その光に照らされる器は、もう“ただの記録”ではなかった。
失われたすべての記憶に、語りかけるための器──対話のはじまりのかたち。
あやのは静かに言った。
「ありがとう、わたしを導いてくれたすべての声へ。この器に宿る記憶が、次の誰かへ届きますように」




