第五章:闇の界 ― 名を与えられなかった子らの嘆き
夜すら恐れる場所。
日も灯も、記憶さえも届かぬ場所──そこが、闇の界だった。
あやのと梶原が踏み入れた瞬間、世界が沈む。
風の音も、草の囁きもない。
すべてが、**喪われる前の“沈黙”**に包まれている。
それは、死ですらない。
始まりすら与えられなかった存在たちの、まだ声にすらなっていない存在。
あやのは、ふと立ち止まった。
息が、重い。
魂の深部に触れるような、冷たい何かが、彼女の胸を撫でた。
「……ここは、“忘却”ではない」
「……ああ、“記されることすらなかった場所”だ」
梶原の声も、いつになく静かだった。
ふたりは、闇の王・**幽冥**の居城へと招かれた。
その王は姿を持たない。
ただ、虚空に揺れる灯りのような声で、語りかけてきた。
「記録者よ……ここに在るのは、名を与えられなかった者たち。呼ばれたことのない“子”たちの嘆きだ。生きた証もなく、記録されることもなく、死ぬことさえ許されず……闇に還ることもできず、ただ、ここにいる」
「……それは、“誰かの目にも触れなかった命”……?」
あやのの問いに、闇が、ゆっくりと揺れるように応じた。
「否。“目にしていたのに、記さなかった”者たちがいる。忘却よりも酷いのは、“無視された存在”。」
それはあまりにも重い言葉だった。
幽冥に導かれ、ふたりは界の最深部──**“名もなき子らの広場”**と呼ばれる場所へと向かった。
そこは、花も咲かず、土も芽吹かず、石碑さえ立っていない。
ただただ、灰色の地面が続く空間。
けれど、足を踏み入れた瞬間、あやのの目がわずかに見開かれる。
──たくさんの“視線”がある。
見えない。けれど、確かに“誰かが見ている”。
それは、記録されなかった魂たち。
名を呼ばれなかったまま、“記録の外”に置き去りにされた声たち。
「……わたしたちの名前を……呼んで……」
「……わたしたちは、生きた。見ていた。望んだ。なのに……」
「……どうして、あなたは……名前をくれなかったの……」
あやのは、声を失いかけながら、深く、深く祈るように言った。
「……ごめんなさい」
星眼が、ひとつひとつの“存在の気配”を捉えていく。
名がない。
記録もない。
でも、確かに“誰か”だったという気配だけが、そこに在る。
「わたしは、あなたに名前を贈ります。いま、ここで、生まれてくれたあなたの証を、わたしの記録に刻みます」
そう言って、彼女はひとつ、声を与えた。
「……ユヅリ葉。いま名づけたのは、忘れられたあなたに“贈る名”。」
すると、彼女の足元に、小さな光の粒が生まれた。
その光は、いくつもの“声なき魂”の嘆きと共鳴し、
やがてひとつの珠となって結晶する。
──**「無声の珠」**
これは、記録されなかった存在たちが、初めて“記録された”証。
名前を持たず、でも確かにいた声が、ようやく“記された”という証。
幽冥が、あやのの手の中にある珠を見て言った。
「記録者よ。闇に光を射すのではない。
闇ごと抱き、そこに“いた”ことを記す者こそ、真の記録者だ。その珠は、対話の器における、最後にして最深の芯となる」
あやのは、深く頭を下げた。
「……必ず、あの器を完成させます」
「“空哭”は、記録されたものを喰らい、記されなかった者たちを支配する。だが、お前がすべての芯を携えたならば──」
「わたしは、記します。対話を。記録喪失のその先に、言葉の再生があると信じて」
すべての界から託された“記憶の心核”を揃え、あやのと梶原は、旅の原点──風の界へと戻る。
そこにて、風の精霊王・霧ノ葉の導きのもと、《対話の器》が、いよいよ完成へと向かう。




