第四十三章 音のない、音の祈り
無響室の最終チェックが終わった日。
旧・蔵前コンサートホール──その心臓部にあたる共鳴の回廊は、すでに静けさの完成形を帯びていた。
ただの「静か」ではない。
それは、祈りのような「音のない音」が満ちる空間だった。
小さな内覧会が行われた。
出るビルのメンバーたち──司郎正臣、梶原國護、そして真木あやの。
さらに、澤井教授、氷室奏介。
かつてこの音楽ホールに通った古い楽団のOBたちも数名。
建築、音楽、記憶、そのすべてに関わった人々が、ひとつの部屋に集った。
壁はやわらかな織物で包まれ、響きを殺す代わりに“耳の感度”を研ぎ澄ませる。
中央に置かれたグランドピアノは、旧ホール時代から残された、黒檀の逸品。
幽霊と呼ばれていたものはもういない。
だが、消えたわけではない。
ただ、役目を終えた者のように──ただ、そこに静かに“いる”。
氷室が椅子に腰掛け、指を鍵盤に落とす。
誰も何も言わない。音すら鳴らさない。
けれど、指が落ちた瞬間、誰の耳にも微かな響きが“確かに”聴こえた。
それは──音ではなかった。
気配。
呼吸。
あるいは「もう音にならなかったはずの想い」そのもの。
司郎が、不意にぽつりと呟いた。
「……いい空間だな。音を聴くためじゃない。音の、最期を見届けるための場所だ」
あやのはその言葉に頷きながら、小さく言った。
「音の死って、案外、静かじゃないんです。
残響みたいにしぶといし、時には悲鳴になる。だから、こうして──
眠る場所が、必要なんですよね。どんな音にも」
澤井教授が模型を見下ろしていた。
目元をぬぐう素振りをしたのは、埃のせいに違いなかった。
「……これが、建築なのか。
いや──これは、もう“建築”じゃない。
君たち、これは“供養塔”だよ。音のためのな」
梶原は笑わなかった。
ただ黙って、ピアノの脚元に置かれた小さな音叉を見つめていた。
それは、まだ何ひとつ音を鳴らしていなかった。
だが──きっといつか、何かの拍子にそれは震える。
まるで、空気に祈るように。
その夜。
出るビルに帰ったあやのは、自室でふと、旧ホールで感じた“気配”を反芻していた。
――静けさは、すべてを消すわけじゃない。
残る音もある。
聴こえなくても、感じられるものがある。
ふと、机の上の音叉がひとりでに小さく震えた。
コン…と、わずかに響いたその音を、あやのは胸の中で受け取った。
「……うん、おやすみ。もう、大丈夫だよ」
音は応えなかった。
けれど、その沈黙は、たしかに安らぎだった。