第三章:忘却すら拒まれた場所
水の界を発ち、あやのと梶原は、**地の界・磐座**のもとを目指した。
火は燃やし、水は流し、風は舞う。
だが地は、すべてを留め、蓄える。
それはこの精霊界における、もっとも“重く”、もっとも“静かな記録”。
しかし今──
地界に刻まれてきた歴史の礎が、ぽっかりと抜け落ちている。
到着した地の界は、静寂と重力が支配する世界だった。
地面はひび割れ、祠や碑文が無数に点在する。
それぞれが、誰かの言葉、名、祈りを宿していたはず。
……けれど、今やその石碑のほとんどが、無銘だった。
「……なにかの記録だったんだろうけど、もう……読めない」
あやのは、苔むした石碑の前でひざを折る。
目を凝らし、指でなぞっても、記憶の欠片すら浮かばない。
「……“忘れる”ことすら許されてないような、空白だ」
梶原が低く呟いた。
普通なら、時と共に失われるものが、やさしく朽ちてゆく。
けれどここはちがう。
あまりにも突然、記録が拒まれたように消えていた。
「……記録すら、“存在した痕跡”を拒んでる」
あやのの声に、石の奥深くから返答があった。
「……名を記せぬ者がいた。名を与えられず、忘れることすらできぬ者。その叫びが、地の中に縛られている」
それは、石そのものが語った声だった。
かつてこの界を支えた、記憶の“台座”──地の意志。
ふたりは地王・磐座のもとを訪ねた。
磐座は、人型を持たぬ。
彼は**「山そのもの」**のような存在だった。
巨岩の奥から響く声は、深く、遅く、重い。
「記録者よ……“忘れる”ということは、“遺す”ことと等しい。だが、今、この界には……“記されることすらなかった者”が、累々と横たわっておる……」
「……記録されなかった存在は、どこに……?」
「“地の耳”へ行け。そこに、“語られなかった声”が、まだ眠っておるかもしれぬ」
“地の耳”──それは、大地にぽっかりと口を開けた洞窟だった。
ふたりは、火の灯だけを頼りに、静かに奥へと進む。
やがて、あやのが立ち止まった。
「ここ……」
目を閉じ、耳を澄ませる。
確かに、誰かの存在がある。
けれど、それは声でも音でもない──
**「名を呼ばれることのなかった想い」**が、地に埋もれている。
やがて。
「……たすけて……」
「わたしは、ここにいた……名前も、顔も、何もなくていい、ただ……残して……」
それは、かつての記録にすら残らなかった命の、最期の、あまりにも小さな“願い”だった。
あやのの瞳が、淡く光る。
星眼が、微かな震えのように大地の奥底へと射抜く。
すると、大地の深層から、一粒の結晶が浮かび上がった。
**「堅結の核」**──
記録されずとも、存在したという証の結晶。
あやのは、それを両の手でそっと抱くように持ち上げた。
「……あなたは、ここにいた。確かに、ここに」
洞窟の口を出たところで、磐座の声が再び響いた。
「……それを持ち、次へ向かえ。地が記した記録の“空白”は、記録者の手で埋めねばならぬ。記録されるとは、生きたということだ……忘れられても、なお」
あやのは、結晶を胸元に抱き、深く一礼した。
「……ありがとう。わたし、絶対に、記します。忘れ去られる前に、ここに“いた”誰かのために」
梶原が、彼女の背に手を添えた。
「行こう、あやの。次は──光の界だ」




