第十一章 風の精霊王、顕現
風の輪会が静かに締めへと向かうその時、
突如として、空気の密度が変わった。
ただの風ではない。
呼吸を拒むわけではないのに、
その場のすべてが「王」の気配に膝を折りかけた。
霧ノ葉が、わずかに瞠目する。
「……まさか……この場に、直接……?」
その瞬間、円環殿の中央に、風が一点から“立ち上がる”。
空間がきしみ、霧がほどけ、
音がすべて奪われたかのような静寂の中に──
現れたのは、ひとりの風の王。
彼は、風の衣を纏い、
その姿は人にも獣にも似て、定まらない。
髪は銀と空のあわいを揺らし、
瞳には、雲の切れ目の陽光が灯っていた。
名は──
「……蒼穹」
霧ノ葉が、その名を口にした瞬間、
すべての風精霊たちが、静かに、膝をついた。
「風の頂きに立つもの。風の王、蒼穹さま……」
その名に応じるように、彼はふわりと足を地に降ろした。
だが、足音はなかった。
「記録者よ」
その声は、あやのの内側に直接響いた。
耳ではなく、胸に、骨に、
風の記憶が触れるように。
「“空哭”──その名を、汝が記したと聞いた」
あやのは立ち上がり、膝をつく。
だが、すぐに王の手が風となってそれを止める。
「頭を垂れるな。
記録者は、風に等しい。
風は膝をつかずして、ただ吹く」
その言葉に、あやのの瞳が微かに見開かれた。
「私は、風の王・蒼穹。
かつて、この界の風を編み、
今はただ、その揺らぎを見守ってきた」
「ならばなぜ……これまで黙っていたのですか」
それは梶原の問いだった。
その声に、王は一瞬、目を細めた。
「空哭は、我らが風の“裏面”にして、もともと存在してはならぬ“記録の断層”。本来ならば、記録されずに消えるはずの無数の“忘れられた声”が、やがて渦となり、意思を持った」
「それは、風が生んだ罪か」
「いや──記録という行為そのものが、引き寄せた歪みだ」
あやのの背筋が凍る。
それは、自分の“責務”に対する問いそのものだった。
「だが、記録は必要だ。それを知っていながら、私は長らく沈黙していた。なぜなら、私自身が……“空哭”の誕生を、止められなかったからだ」
王の肩から、ひとすじの風が滑り落ちる。
それは、涙ではない。けれど、懺悔に似た風だった。
「だからこそ、私はこの名を受け入れる。《空哭》という“敵”を、我が界の“現実”とする。そして、風の王として、あなたに告げる」
蒼穹は一歩、あやのに近づいた。
「記録者よ。
汝に、風のすべてを託す」
円環が震え、風が起きる。
それは決して怒りでも威圧でもない。
ただ、精霊界の頂きが一人の記録者に全力を預けたという、静かな激震だった。
「“対話の器”は、我が髪より編んだ“風縒”を骨とせよ。汝が記す言葉に、風の王として、命を添えよう」
彼は、ひとすじの銀の風をあやのの指へと渡した。
それは、風そのものが形になった“精霊王の縒糸”。
「この命に、汝の声を編め」
王の姿は、次の瞬間には風と化して霧に溶けた。だが、王が与えた風縒は、確かにあやのの手の中にあった。
霧ノ葉が、目を伏せて微笑む。
「……王が動いたのは、界が本当に、危機に瀕している証。でも同時に、それは“希望”でもある。あなたが与えた名が、この界を変えたのよ。真木あやの」




