第十章 風の輪会(ふうのりんかい)
精霊界の中心、大気が螺旋を描く風の座輪に、
数百年ぶりに風の輪会が招集された。
場所は、空に浮かぶ透明の円環殿。
風だけが通れる道を抜け、あやのと梶原は霧ノ葉の導きでそこに立った。
そこには、界に名を持つ精霊たちの代表が集っていた。
「渦音」――風の音を記憶する老精霊
「葉紡」――森の葉の囁きを司る長命種
「凪尾」――風を止める力を持つ特異な静精霊
「笛哭」――亡き風の調べを紡ぐ吟遊の精霊
彼らは“風に名を持つ者たち”。
あやのが名を定めた《空哭》という敵を前に、風の生存権そのものが問われていた。
中央に立つ霧ノ葉が、静かに告げる。
「本日、記録者・真木あやのの言葉をもって、《空哭》の記録が正式に界へと伝達された。記録と命、声と風を喰らう、名を拒絶した存在……それを、記録者は《空哭》と記した」
重々しい沈黙が、輪を包む。
そして、最年長の渦音が口を開いた。
「……あれは、風の裏返しよ。音が鳴るゆえに、音無が生まれる。記録があるゆえに、記録の欠落が生まれる。それが“自然の均衡”ではなく、“侵食”であるとするなら──これは災厄だ」
「《空哭》の名は、風の子が産み落とすにはあまりに重い」
葉紡が言った。彼女の声は葉擦れのように優しい。
「だが、それでも。名を与えられたということは……」
「対話の余地が生まれたということ」
そう結ぶのは、吟遊精霊・笛哭だった。彼の背中には、喪われた風を記す無数の笛が吊られている。
「記録者殿。あなたに問う」
凪尾が、口を開く。
その声は不思議なまでに静かで、風を切る音すら孕まない。
「あなたは、あれと対話する気があるのか?」
あやのは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
だが、答えはすぐに見つかった。
「……わかりません。《空哭》に“対話”の意思があるのかも、“聞く耳”があるのかも。でも、名をつけた以上──私の記録は、対話から始まります。記録者として、それがすべての始まりだと信じています」
言葉を終えたとき、風がわずかに渦を巻いた。
それは、風たちの“賛意”。
やがて、霧ノ葉が宣言する。
「これより《空哭》への三段策を定める──」
「気配の網」
精霊界・魔界・地上界すべての風の“流れ”を張り巡らせ、《空哭》の出現を感知する観測網の構築。
「記憶の種子」
喰われた記憶を補完・保存するため、記録者による“仮名記録”の儀式を各界に設置。
「対話の器」
《空哭》との直接対話を試みるため、精霊界に“意識の中継器”を造る。記録者・真木あやのがその中心に立つ。
「……私が、その器に?」
あやのの声に、霧ノ葉は静かにうなずく。
「記録者として名を与えたあなたにしか、《空哭》は姿を現さない。その姿は“言葉の形”でしか届かない。だからあなたが、“言葉で問う者”になってほしい」
梶原が静かに立ち上がる。
「その器の傍には、俺が立つ。必ず」
輪会の空気が、わずかに和らいだ。
精霊たちは互いに風の音を交わしあい、やがて一致した合図を出す。
──《空哭》との対話に、動き出す。




