第九章 報告の朝
朝は、霧の奥から静かにやってきた。
精霊の界に太陽は昇らない。
けれど、光は訪れる。
それはまるで、大気そのものが目覚めるような感覚だった。
庵の奥、霧ノ葉のいる広間へ。
あやのは、梶原と並んで立つ。
「霧ノ葉さん」
姿は変わらず。
だがその背に揺れる風が、少しだけ重く見えた。
「……記録者よ。夜のうちに、何か見ましたね」
「……ええ。ユヅリ葉の記録の、続きを」
あやのは、手の中に葉をそっと包んだまま、ゆっくりと語り始めた。
封じの地で見た“風の喪失”。
名も形も持たない“喰風”の痕跡。
記録が、存在そのものを上書きされ、掠め取られた恐怖。
そして──
ユヅリ葉という、小さな命が、最後まで記し、遺したもの。
あやのは途中で言葉を詰まらせながらも、
正確に、丁寧に、心をこめて語り切った。
言葉がすべて終わると、霧ノ葉は静かに目を閉じた。
しばらくの沈黙。
やがて、霧の中から微かに、風鈴のような音が鳴った。
それは、精霊の界における──
**「受理」**の合図。
「……ありがとう、記録者よ。あなたが記してくれたこと、界が受け取った。ユヅリ葉の声も、今、ようやくここに届いた」
霧ノ葉の瞳に、初めて小さな涙の光がにじんだ。
それは、霧の長としてではなく、“かつての姉”としての痛み。
「彼女は、わたしの妹のような子でした。まだ若く、小さく、けれど人一倍、界を想っていた……」
あやのは何も言わず、そっと膝をついた。
そして、手の中の記録の葉を捧げるように差し出す。
「これはもう、“わたしの記録”ではありません。界の記憶として、永く残してください」
霧ノ葉はその手を取った。
葉を受け取る手は、細く、冷たく、けれど確かな重みを持っていた。
「受け取ります。……そしてあなたには、もう一つお願いがあります」
あやのが目を上げる。
「“喰風”は名前を持たない。正確には──記録を拒絶する名で成っている。だから、こちらから“呼ぶ名”をつけなければ、対話も対抗もできないのです」
「……名を、記す?」
「ええ。記録者にしかできません。“喰風”という呼称を超えて、“そのものの真名”を定義する。それが、次の役目です」
あやのはしばらく黙って、唇を結んだ。
そして、静かに頷いた。
「……はい。受けます。記録者として、わたしが“その名”を定めます」
霧ノ葉は、霧の奥から一本の杖を取り出した。透明な枝のような、それでいて筆のようにも見えるもの。
「“名定めの儀”を始めましょう。あなたの心に見えた姿、聞いた声、感じたもの──すべてを形にして、名にしてください」
あやのはその杖を受け取った。
目を閉じる。
──風の渦。
──喰われた記録。
──存在の空白。
──そして、名を拒絶する者。
(あなたにはまだ名がない。でも、わたしが“書く”ことで、あなたはひとつの“存在”になる)
長く深く、静かに息を吸い込む。
やがて、あやのは目を開き、名を口にした。
「――《空哭》」
霧が震えた。
まるで界そのものが、その名に反応したかのように。
「……それが、“喰風”の真の名」
霧ノ葉が目を細めて頷いた。
「ありがとう。記録者・真木あやの。これで、“それ”は、ようやく名を持ちました。それはすなわち、“抗い”の始まりでもあります」
そして、彼女は梶原にも目を向ける。
「守り人よ。これより先は、命を削る道です。それでも、あなたは傍に立てますか?」
梶原は、ただ一言だけを返した。
「最初からそのつもりで、隣にいます」
霧の風がふたりを包んだ。
こうして、「空哭」という名を得た喰風との、
静かで苛烈な記録と抗いの旅が幕を開ける。




