第八章 夜の葉読(ようどく)
魔界と精霊界の狭間にある「風の庵」にて。
夜。
梶原が火を熾し、あやのが温かい薬草湯を手にしている。
けれど、どちらもほとんど言葉を交わさない。
封じの地で見た“喰風の痕”は、互いの胸に深く沈んでいた。
「少し……散歩してくるね」
そう言って、あやのは風の庵の裏手、小さな露台に立った。
月明かりは濃い霧にさえぎられながらも、柔らかく地を照らしていた。
風がない世界。
けれど、この夜だけは──霧の奥から、微かに葉擦れの音がした。
あやのは胸元から、ユヅリ葉の葉を取り出す。
昼に見た記録のあと、葉の内側にうっすらと新しい“光の縁”が浮かんでいた。
(……続きを、見ていいのかな)
問いかけるように、そっと掌を添えた。
その瞬間、葉がほのかに光を帯び、声なき記憶が開かれた。
──夜の森。
まだ静かな風のあるころ。
少女・ユヅリ葉がひとり、泉のそばに座っている。
小さな翅。細い肩。だが、その瞳はまっすぐに“向こう”を見つめていた。
『記録者さま。わたしは、あなたに会えるかわからないけれど……きっと、あなたは来てくれるって、森が言ってたの。』
ユヅリ葉の声は、とても小さく、けれど震えはなかった。
『この界が静かになって、誰も話さなくなって、わたしも“消えそう”になって……でも、忘れたくなかったの。』
『風が運んでいた歌。木が囁いていた秘密。わたしのいちばん大切な、あの子の笑い声──』
ユヅリ葉は、泉に手を伸ばした。
水面が揺れ、そこに映ったのは、たくさんの精霊たちの姿。
彼女が記録してきた、愛しい日常のかけら。
『……これが、全部、なくなるなんてイヤだった。喰風が来ると、世界はただ“空っぽ”になる。誰も、悲しんだことも、喜んだことも、なくなっていくの。それって、すごく……すごく、こわいことだよね』
風がふっと吹いた。
そこには、まだ優しい風があった。
『だから、わたし、記録者になりたかったの。でも、記録者にはなれなかった。わたしは、“媒介者”で、ただの“器”だったから。』
ユヅリ葉が笑った。
『でもね、それでも……最後に一枚、残せたなら。それがあなたに届いたなら、それでいいの。』
──そして、彼女は立ち上がる。
『わたしの声が、あなたに届いたなら──この界にはまだ、記すべきものがあるってことだから。』
──風が、止まった。
ユヅリ葉の身体が、ゆっくりと光の粒に変わっていく。
『ありがとう。あなたに、届いてくれて、ありがとう。』
光が泉の水面に散っていく。
その音は、涙のようで、風のようで。
──記憶は、そこで終わった。
夜の露台にて。
あやのの頬に、ひとすじの涙が伝っていた。
胸に抱く葉はもう光を失っていたけれど、
その手の中には、確かに“声”が残っていた。
「……ありがとう、ユヅリ葉。あなたの名前、わたしの記録に残すよ。ずっと」
風のない夜に、あやのの声だけが、そっと響いた。
そして、背後からそっと布をかけてくれる梶原。
「……寒いぞ」
「うん……でも、あったかい。今夜は」
梶原は何も言わず、ただ隣に座った。
ふたりの間に、今はもう、言葉は要らなかった。
月だけが、その静かな夜を見守っていた。




