第七章 封じの地にて
風の庵を出て、光の道を辿ること、およそ一刻。
あやのと梶原が立ったその場所は、精霊界のあらゆる気配から“切り離された”ような異空間だった。
空も、風も、ない。
「ここ……まるで、息ができないみたい」
あやのが呟いた。
けれど実際に、酸素の濃度が低いわけではない。
呼吸できないのは、気配が、まったく“流れて”いないからだ。
「生きもののいる場所じゃねぇな」
梶原が警戒するように周囲を見渡す。
地面は、砕けた石のようなものに覆われていた。
かつてそこには、**“風の柱”**があったという。
界をまたぐ風の源──
世界の記憶が集い、そして散っていく場所。
だが今、その柱は消えていた。
まるで何かに食いちぎられたように、地面には**“巨大な渦痕”**だけが残っている。
「……これは……」
あやのがその縁に触れた瞬間、記憶の反響が襲った。
──渦が、喰っている。
──音を、風を、記録を。
──形も、声も、名さえも。
──すべてを引き裂き、“風”の姿に偽って。
「やめて……それは、“風”じゃない……っ!」
あやのは顔を覆い、膝をついた。
その額から、再び血がにじむ。
「おい、あやの!」
駆け寄る梶原が抱きとめた瞬間、風が逆流した。
しゅる、と冷たい気流が吹き込んできた。
ふたりを囲むように、視えない何かが空間をなぞっていた。
──喰風、の“痕”だ。
気配はある。けれど、姿がない。
いや、それは“気配”ですらなかった。
気配の“穴”──そこに、本来あるべき存在が抜き取られているという感覚。
「……空白、だ……」
あやのが震える声で言う。
「ここには、本当なら……精霊たちの祈りが……風の流れが……。でも全部、“何か”に食べられてる……。存在そのものが……なかったことにされてる……!」
あやのの星眼がうっすらと光を帯びはじめる。
記録者としての“眼”が、見えないものを掴もうと動き始めた。
そのとき──
ぎぃ……っ……
風ではない。
空間そのものが軋んだような音。
地面がわずかに歪んでいた。
黒い筋のようなものが、大地ににじみ出る。
それはまるで、**“風の死骸”**だった。
触れるな、と本能が叫ぶ。
けれど──あやのは、手を伸ばした。
「……これは、“記録されたもの”じゃない……“記録から外されたもの”……」
その瞬間、風のような声が耳に届く。
『見たね。感じたね。……君は、記す人だね?』
何かが、あやのを“認識した”。
梶原がすぐに立ち上がり、手をあやのの肩から腰へ回す。
その目はすでに周囲を探っていた。
「……今、声が」
「聞こえた。……喰風じゃねぇ、でも……“あれ”の眷属か、探りだ」
地の下、あるいは界の層の向こうで、**喰風**の核がわずかに動いた。
それはまだ“来て”いない。
けれど、あやのの存在を“喰うべき記録”として確かに認識したのだった。
「この地を離れよう」
「でも、ここに証が……」
「証なら残せ。お前の声で、あの子の葉で、記録者の手で」
あやのは頷き、震える手で小さな巻紙を取り出した。
ユヅリ葉の葉の上に、そっと置く。
「ここは……精霊界の傷。
風を、声を、記憶を喰う何かが存在する証。
喰風の痕──記録す」
その瞬間、風がふたたび吹いた。
だが今度は、柔らかく、静かに。
まるで、あやのの言葉に答えるように。
葉の記録が、小さく金に光った。
あやのと梶原は、精霊の庵へ戻る道を辿る。
後方では、風の渦痕がいまだ沈黙している。
だが、確かにあやのは知った。
喰風は“存在を喰らう”敵だということを。
記録する者にとって、それは最大の敵であり、
この世界にとっても、最も危険な“名もなき死”なのだと。




