第六章 霧の庵
風が、導いていた。
あやのの足もとを撫で、森の奥深くへと、音なき声を紡ぐように──
「……あそこ」
苔むした小径の先。
立ち並ぶ木々が自然と開け、空がふいに広がる。
霧に満ちた開けた場所。
そこに、まるで息づくように佇む**庵**があった。
柱も扉もない。
けれど、確かに“居”の気配がある。
「ようこそ」
その声は、風のように耳へ入ってきた。
どこからともなく響いた声。だが、次の瞬間には、その姿が見えた。
一本の木の根元に、静かに腰掛けるひとりの女性の精霊。
銀の長髪に、うっすらと透ける翠の装束。
翅はない。だがその背からは、風がゆるやかに立ち昇っていた。
「あなたが……霧ノ葉」
あやのが一歩踏み出すと、霧ノ葉は深く頷いた。
「記録者・真木あやの。あなたを待っていました。そして、あなたと共に来る者──“守り人”の資格を持つ者も」
「守り人?」
梶原が眉をひそめるが、霧ノ葉は笑んだ。
「記録者の足元に影を差さず、手を引き、背を守る者。あの森を越えてきた時点で、資格はすでに刻まれているわ」
霧の帳がゆらぎ、まるで場そのものが呼吸をしているように揺れる。
「……記憶の葉を受け取ったのですね」
「……はい。小さな精霊の、最後の記録」
あやのが胸元の葉を取り出すと、霧ノ葉の眼差しが、少しだけ翳った。
「……あの子の名は、ユヅリ葉。あの森の“口”にあたる子でした。記憶を運び、風を繋ぎ、森と界をつなぐ──小さな媒介者」
「ユヅリ葉……」
あやのがそっと名を呼ぶと、周囲の霧が小さく揺れた。
「あなたが記録者として来たこと、あの子はきっとわかっていた。だから、命を削って“証”を残したのです」
霧ノ葉の声には、憂いと、誇りの両方があった。
「霧ノ葉さん……精霊界に何が起きているのか、教えてください」
まっすぐに問いかけたあやのに、霧ノ葉はしばし目を閉じた。そして、ゆっくりと答え始める。
「――“風の崩壊”が始まっています」
「風の、崩壊……?」
「界を満たす“流れ”が断たれつつあるのです。精霊たちは命を風に宿し、記憶を風に溶かして生きる。それが、止まってしまった。あるいは……止められた」
「誰に?」
霧ノ葉の瞳が、わずかに硬くなる。
「“喰風”と呼ばれるもの。正体は不明です。けれど、風を食らい、記憶を削る。それは、この界だけでなく──魔界にも、地上にも影響を及ぼす」
「あやの……」
梶原がわずかにあやのの肩へ手を置く。
守るように、支えるように。
「あなたが来てくれたのは、希望です。記録者が記す限り、記憶は喰われない。風が絶たれても、“ことば”は残る」
霧ノ葉は、手を差し出した。
「お願いがあります。
“封じの地”へ行ってください。喰風の痕跡が、そこにあるはずです。ユヅリ葉の記録が揺れたあの瞬間……そこに、何かが」
あやのは黙って、その手を握り返した。
「はい。わたしにできるかぎり、記し、証明します。
風のために。ユヅリ葉のために」
霧がわずかに晴れ、庵の奥から、光の道が現れる。
それは封じの地──精霊界の核心へと続く道だった。




