第四十二章 無響の檻、地に立つ
秋風がひときわ冷たくなった頃。
旧・蔵前コンサートホールの一角に、白い鉄骨が立ち上がった。
そこはかつて、地下通路と倉庫が入り組んだ音響的な死角──“音の迷宮”と呼ばれた場所。
音が集まり、閉じ込められ、逃げ場をなくして滞る。その澱が、幽霊を呼んだ。
いま、その空間に「音の終わり」を設計する。
現場監督を務める梶原國護は、他の作業員に比べて明らかに静かだった。
彼は機械の音も、足音も最小限に抑えて、構造の組み上がりを見守っていた。
無響構造は神経質な建築だ。
数ミリのズレが全体に反響する。誤差は許されない。
しかし、それ以上に──このプロジェクトには「気配」のようなものがつきまとう。
「……なにかが、いるな」
梶原は、夜の現場でそう呟いた。
昼間は感じない。夜になると、鉄骨の隙間に視線を感じる。
誰かがいる。音が、見ている。そんな錯覚。
「……もうすぐ終わるよ。あんたも」
彼は誰にともなく語りかける。
その手には、施工図と一緒に折られた、小さな音叉があった。
あやのが現場守りとして置いたものだ。
「これは“弔い”だから。……壊すんじゃない、“祈る”んだ」
そう言って、あやのはその音叉を渡していた。
完成が近づくにつれ、氷室奏介の様子にも変化が見えはじめた。
彼の手は震えなくなり、瞳の赤みも薄れていた。
だが、代わりに、表情が凪のように動かなくなった。
まるで、心が先に音を手放し、空っぽになってしまったようだった。
「君の設計は、美しいですね」
ある日、建設途中の無響室を見下ろす高台から、彼が呟いた。
「でも、これで終わるんですね。
……私の中に、もうあの音はない。
──聞こえないというより、もう、“耳”がそこになくなった感覚です」
あやのは、穏やかな声で応えた。
「それは、あの音がようやく“帰る場所”を見つけたからです。
音って、どこにも行けないまま残ってしまうと、魂みたいになっちゃう。
でも──行き先があるなら、ちゃんと静かになる」
氷室は微かに目を細めた。
「……私は、ここに残るべきでしょうか。
“音を葬った場所”に、自分の身を置くことが許されるでしょうか」
あやのは、少しだけ首を横に振った。
「葬ったのは、あなたじゃない。……音が、自分で還ったんです。
だから、あなたはもう、自由です。
──あなたが聴きたい音を、また聴いてください。
いまのあなたは、もう“器”じゃなくて、“耳”を取り戻した人なんですから」
その瞬間、風がひとすじ、回廊を吹き抜けた。
建築の骨組みがきしむ音の中に、氷室は微かに、聞き覚えのある旋律を感じた。
──遠い昔、母親の口ずさんだ子守唄の、かけら。
氷室奏介は、静かに目を閉じた。
「ありがとう」
それは、あやのに向けられたのか。
音に向けたのか。あるいは、自分自身に。
答えは、風に消えた。