第四章 風の森の沈黙
気がつけば、そこは“森”だった。
けれど、あやのはすぐに違和感に気づいた。
風がない。音もない。空気の層そのものが、どこか凍りついている。
「……ここ、風が……止まってる」
目の前に広がるのは、翡翠色の苔に覆われた樹林。
梢の上には、雲ひとつない空が広がっているはずなのに、空が見えない。
木々は、立ちすくんだまま息を止めているようだった。
枝葉は微動だにせず、精霊界特有の“ささやき”すら聞こえない。
「……まるで、死んだような」
梶原の低い声が、あやのの背を押した。
二人はゆっくりと歩を進める。
靴の裏に広がる苔は、ふかふかと沈むはずだったが、どこか“重い”。
──違う。
これは、沈んでいるのではなく、“沈められて”いる。
樹の根が、土の中で絡まり、絡め取られているような……
命の流れそのものが、封じられているような違和感。
あやのは、ふいに胸を押さえた。
鋭い痛み。けれど、刃ではない。
──記憶、だ。
「……誰かの、声……?」
視界の隅に、一瞬、少女が見えた。
透き通るような緑の髪。
足は地に着かず、肩には光の葉。
ふと、あやのと目が合った瞬間──
燃えた。
森が燃えていた。
炎ではない。
風が燃えるように、森が崩れ落ちる記憶。
「……っ、あれは……!」
息を詰めたその瞬間、あやのの額から一筋、血が流れた。
痛みはなかった。ただ、思い出してはいけないものに触れてしまったのだと、理解できた。
「おい、あやの!」
梶原が支えるより早く、あやのは膝をついた。
でも、意識ははっきりしていた。
「……誰かが、残していった……記憶……
この森の“断片”……」
あやのの中で、“記録者”の力が反応している。
この沈黙は、ただの自然の死ではない。
精霊たちの記憶ごと封じ込められた、世界そのものの痛みだ。
「梶くん、わたし、少し……」
「だめだ。単独行動はするな。……お前が何を見ても、俺がそばにいる」
力強いその声に、あやのは息を吐き、微かに笑った。
そうだ、もう一人じゃない。
ふたりは改めて、沈黙の森を進む。
やがて、その中央に、**異様な“空白”**があった。
森の木々が円を描くように倒れ、中央にはぽっかりと何もない場所。
苔も、根も、空気も、そこだけ“すくわれた”ように存在していなかった。
「……ここに、“何か”がいた」
あやのが呟いたとき、再び視界にちらりと現れた緑の少女。
今度は、手を伸ばしていた。
その手には、一片の“記録の葉”。
──そこから、誰かの絶叫が響いた。
次の瞬間、風が吹いた。
けれどそれは、優しい風ではなかった。
記憶そのものが風となって、あやのに突き刺さった。
「くっ……!」
声を上げて顔を伏せたあやのの背に、梶原が咄嗟に覆いかぶさる。
風は過ぎ去ったが、森には再び、静寂が戻っていた。
だが──すでに何かが動き始めていた。
“あやのが、来た”
その事実が、精霊界にとって何を意味するのか。
それを知る者たちが、じっと、遠くからその到来を見つめている。




