第三章 界渡りの前夜
旅支度は、思いのほか静かに進んだ。
梶原は最低限の装備に留め、あやのの手は、重たくない布の包みに必要な写本と記録具を丁寧に詰めていった。
それは、戦う旅ではないと理解しているからだ。
これは、世界を“聴き”、そして“記す”ための旅だ。
司郎は文句を言いつつも、出発の手前でしっかりとした防御結界を屋敷の裏山に張り終え、
最後には真顔で一言だけ呟いた。
「帰ってきたら、ちゃんと報告なさいよ。……すべてを記録すること、それがあんたの役目」
「うん、もちろん。司郎さんにはまず、一番に伝える」
あやのの返事に、司郎は鼻を鳴らして背を向けた。
そのまま言葉もなく、離れの屋根裏に消えていった。
夜、精霊の導きに従い、ふたりは裏庭に掘られた古い**“風の井戸”**へと向かった。
井戸の縁には、精霊の子が横たわっている。
その身体から、薄く、細い糸のような光が井戸へと吸い込まれていた。
「界渡りの門は“共鳴”で開く」
あやのは、司郎からの書付にあった言葉を思い出す。
この井戸は、かつて界と界の気配が交わる場として使われていた。
時を超え、今また──
「準備は、いい?」
あやのが振り返ると、梶原は短く頷いた。
懐の中に護符をひとつ、そしてあやのと同じように薄衣をまとっている。
あやのは静かに歩み寄り、井戸の縁に指先をそっと触れた。
その瞬間──
風が鳴いた。
ひときわ強い音が、井戸の底から巻き上がり、あやのの髪を空へとかき上げる。
精霊の子が光を放ち始める。
それは声ではなく、感覚そのものが“語り”として届いてくるものだった。
『界を越えるには、記憶を編み、言葉を鍵とする。』
『記録者よ──その魂に、境を穿て』
あやのは目を閉じ、両手を重ね、声にならない声で呟いた。
「風の名において、私は門を開きます。あなたたちの嘆きと願いを、記し、伝え、証明する者として──」
風が、渦となって昇り、
井戸の中にぽっかりと“何もない”穴が開いた。
そこは空ではない。
闇でもない。
まるで音のない音──精霊の界、そこへ通じる**“門”**だった。
梶原が無言で一歩前に出て、あやのの手を取る。
「行こう。……手は離さない」
「うん」
あやのが微笑んだその瞬間、
幸が小さく「くぅん」と鳴いた。
「幸は、ここで司郎さんを見張っててね。頼んだわ」
「わんっ」
護衛犬は、少しだけ不満げに鼻を鳴らしたが、主の瞳を見て何かを察したようだった。
そのまま座り込み、門の傍で見送るように背を伸ばした。
あやのと梶原は、手を繋いだまま、風の井戸の底へと、静かに歩みを進める。
その身を、異なる理の中へと溶かしていくように。
ふたりが通ったあと、風は音を吸い込むようにしんと止まり、
そこに残された井戸の縁には、ひとひらの光が揺れていた。
精霊界──
記憶が語り、声なき声が響く場所。
その静かな世界で、ふたりを待っているものとは。




