第二章 風の記憶、光の欠片
精霊の小さな額に、あやのの指がそっと触れる。
その瞬間──
視界のすべてが、ふっと淡い光に染まった。
草原。
果てしなく広がる翠の海。
空は水彩のように溶け合い、風が光の粒を巻き上げていた。
そこは、精霊の界。
物質と命のあわいに存在する、あらゆる“気配”たちの居場所。
声なき声、形なき祈りが、息づく場所。
けれど。
──焼け落ちていた。
草は焦げ、空は裂け、風が悲鳴を上げていた。
“何か”がそこにいた。
重く、濁り、音を殺し、世界を押し潰すような存在が。
精霊たちは逃げ惑い、崩れ、光を失い──
「──っ!」
目を開けたあやのは、汗に濡れた額を押さえ、肩で息をしていた。
「見たんだな」
司郎が傍で、珍しく低い声で言った。
「……精霊界、襲われてる。何かが……」
「“何か”じゃない」
あやのの背後、ぴしりと乾いた声がした。
振り返ると、梶原が手にひとつの巻物を持って立っていた。
まだ封も解かれていないというのに、そこから微かな風が漏れている。
「庭の風穴に落ちていた。“記録者 真木あやの”宛てだ」
巻物は、滑るような白木に編まれた芯に巻き付いており、封蝋には精霊界を象徴する“光の葉”の刻印がある。
受け取ると、あやのの指先が自然にそれを解いていた。
《記録者殿へ》
この界は今、浸食されつつあります。
わたくしどもに残された言葉は、「記録と証明」です。
あなたが来るなら、まだ希望があると、風たちは言います。
──精霊の長 霧ノ葉
一通の親書。
それは、助けを乞う悲鳴であり、ひとつの世界の命運を託す“鍵”でもあった。
しばし沈黙のあと、梶原が口を開く。
「……行く気か」
「……うん。でも、これは戦いじゃない。記録と証明。わたしの“任”として、行かなきゃって思うの」
その顔は静かだった。
決意よりも、理解に満ちた表情。
すると司郎が、いつものようにため息混じりで立ち上がる。
「わかったわよ。じゃあ、あたしも準備するわ。どうせまた巻き込まれるんでしょう?なら、最初から腰据えてやるのがうちの流儀ってもんよ」
「お前は留守番だ」
「なによそれぇ!」
「現地に行くのは俺とあやの。お前は……この屋敷を守れ。精霊界が壊れてるなら、魔界にもその余波が来る。備えが必要だ」
「くう……冷静すぎてムカつくわ……でも正論よぉ……」
司郎がうなだれるそばで、あやのはそっと精霊を抱き直した。
「連れて行こう。この子は、あっちに戻るべき。案内役としても、記憶の媒体としても、きっと必要になる」
梶原は黙って頷いた。
その手はすでに、旅支度を思い浮かべているようだった。
こうして──
あやのと梶原は、魔界の中央都を離れ、
“精霊の界”へと旅立つ決意を固めた。
再び異界への扉が、彼女の足元に開き始めていた。




