新章第一章 精霊の界からの誘い
魔界・中央都のはずれ。
古い城砦跡を改装した、石造りの屋敷がひっそりと佇んでいる。
蔦に覆われた塔屋、赤錆の門扉、庭には野性の草花と護衛犬・幸がのんびりと寝そべっていた。
正面の母屋には、真木あやのと梶原國護。
そして離れ──半ば崩れかけた見晴らしの良い屋根裏には、なぜか司郎正臣が陣取っていた。
「いやあ、夫婦生活ってのはこう……隙間から覗きたくなるのよねぇ」
「──誰が覗き込める隙を空けた」
梶原が真顔で応じるたび、司郎は芝居がかった溜息をついて肩をすくめる。
「なに言ってんの、あたしが隙そのものよォ。風とともに生きるってやつ?」
「そういうの、風評被害って言うのよ」
あやのの茶を淹れる手は慣れたもので、司郎のための器だけ、なぜか毎回欠けた茶碗だった。
こうして始まった日常は、
魔王の座が空白となり、記録者としての務めを果たし終えたあやのにとって──
ほんとうに久しぶりの「静かな日々」だった。
静かすぎるくらいだった。
だからこそ、その日。
幸がうずくまる何かを見つけ、庭の奥で鳴き声をあげたとき。
あやのは、どこかで心の奥が軋むのを感じた。
「……精霊?」
あやのが駆け寄った茂みの奥。
そこには、淡い光を放ちながらぐったりと倒れた、小さな生きものがいた。
透き通るような翅、亀裂の走った額、痩せた肢体。
魔界の自然に宿る“精霊”──だがその傷は、ただの獣の爪ではない。
あれは、誰かに追われていた傷だった。
「……お願い……記録者……記録者……様……」
掠れた声で、精霊がそう言った瞬間、
あやのの背に、ふっと冷たい風が通り抜けた。
視界の隅が、どこか別の界へと滲む。
「風の……界?」
「ちがうわよ、これは……精霊の界、ね」
いつのまにか現れた司郎が、あやのの隣にしゃがみ込んでいた。
真剣な眼差しで精霊を見つめ、吐息のように呟いた。
「……ここに来たのが、もし“選ばれた”ってことなら
──また面倒なことに巻き込まれるわよ、あんた」
あやのは答えず、ただ黙って精霊を胸に抱いた。
その体はひどく軽く、どこか──音のように儚かった。
「……大丈夫よ。もう、ひとりじゃないから」
そう言った瞬間、精霊の小さな瞳に、涙のような光が滲んだ。
そして遠く、風が不自然にざわめいた。
それはまるで、“界の扉”が開かれた合図のようだった。




