幕間 現場ふたたび
午前八時、山の稜線から陽がゆっくりと顔を出す頃。
温泉郷の南端、川沿いの整備現場には、すでに数人の作業妖たちが集まりはじめていた。
薪の火でお湯を沸かす者、配管の点検に潜る者、
大鍬を振るって未舗装の山道を均す者──
いずれも梶原の指示で動く、屈強な魔界の職人たちだった。
「……おーい、梶の旦那ァ!遅いぞォ!朝から資材が足りねぇって騒いでたんだ!」
「まーた組長が寝かせすぎたんじゃねぇの〜?」
「むしろ寝てねぇんじゃねえの〜?」
数名の作業妖がニヤニヤと笑いながら、斜面の上から手を振る。
あやのは苦笑しながら梶原の背に隠れるように身を引いた。
「……全員あとで水路の泥さらいな」
ぼそりと梶原が言うと、一斉に視線が逸れた。
「うわ、マジで怒ってる……」
「嘘だろ、組長昨日から上機嫌だったのに……」
あやのが思わず吹き出すと、梶原はちらりと横目で見て、「笑うな」と低く呟いた。
だがその耳は、少し赤かった。
そのとき。
「──あっ!」
声を上げたのは、現場の端で砂を掘っていた小さな黒い影。
「わんっ!」
幸だった。
尻尾をふるふると震わせ、すごい勢いであやののもとへ走り寄ってくる。
足場の悪い斜面もなんのその、まるで宙を滑るように軽やかに跳び、あやのの足元へ飛びついた。
「幸……ただいま」
あやのはしゃがんでその頭を抱きしめる。
毛並みは変わらず柔らかく、鼻先は冷たくて、無垢な匂いがした。
「くぅ〜〜ん……」
鼻を鳴らして、すり寄って、また顔を見上げて――
その表情は明らかに「おそかった!」と言っていた。
「ごめんね。心配かけたね」
あやのが頬を寄せると、幸は誇らしげに胸を張ってしっぽを振る。
「……いい犬だろ」
梶原がぼそりと呟く。
「うん。すっごくいい子。でもちょっと……」
「ちょっと?」
「……今朝のあなたと、ちょっと似てる」
「は?」
顔を赤くする梶原をよそに、あやのは幸とともに現場へ歩き出した。
その背を見ていた職人の一人が、そっと口にする。
「……あれは、もう完全に“組の姐さん”だな」
「いや違う、“嫁さん”だ……」
「……マジかぁ……ついに梶の旦那が落ちた……」
「──俺たち、ついに“組長の逆鱗”を地雷原で作業することになるのか……」
「泣くな。今日からもっと丁寧に生きようぜ……」
現場に、笑いとため息が混じった空気が流れた。
その一方で、あやのはすでにスケッチパッドを取り出し、
水路の改修案を描きはじめていた。
「ねえ、梶くん。ここ、もうちょっとだけ掘ってもらえれば水の流れが自然に合流するの。地層の変化も調べたから、多分、もう崩れないはず」
「……わかった。指示出す。重機と人足、あと二人手配できるか?」
「できると思う。でも、急がなくていいよ。今日からまた始まるだけだから」
あやのが微笑んだ。
その笑顔を見て、梶原は静かに頷いた。
こうして──
ふたりの“日常”がまた、静かに、力強く動き始めたのだった。




