幕間 月を閉じ込めた部屋
宿へ戻る道すがら、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。
けれどそれは、沈黙ではなかった。
繋がれた手のひらと、時折交わる視線がすべてを物語っていた。
宿は温泉の湯気に包まれた、古びた木造の離れだった。
客もほとんどいない。
魔界の片隅にある、忘れ去られたような宿は、この夜ふたりのためだけに用意されていたかのようだった。
部屋の灯りは、薄明かりひとつ。
障子越しの月が、畳に淡く影を落としている。
あやのはゆっくりと浴衣を直しながら、ふと立ち止まった。
振り返ると、梶原がそのまま、部屋の隅でじっと彼女を見つめていた。
不器用な目。けれど、逸らさずに見ていた。
「……なに?」
あやのが小さく笑う。
けれど梶原は、答えなかった。
代わりに、静かに近づいてきて、何も言わず、彼女の頬に手を添えた。
その手が、熱い。
そのまま梶原は、あやのを抱きしめた。
ゆっくりと、確かめるように、胸の奥から何かを吐き出すように。
「……お前が、帰ってきてくれて、よかった」
その言葉に、あやのの肩がかすかに揺れた。
そしてそっと、彼の胸に額を預ける。
「ねえ、」
「ん?」
「……もうどこにも行かないって、言ったら……縛ってくれる?」
冗談めいて言ったはずなのに、
言葉の最後が少し震えて、あやの自身が驚いた。
梶原は答えなかった。
ただ、腕の力が増す。
──それは返事だった。
畳にふたりの影が落ちる。
外では虫の音が、まるで息をひそめるように、遠くへと消えていく。
夜が深くなっていく。
月の光が、障子のすきまからこぼれ、
まるでふたりだけの世界を、そっと閉じ込めていた。
この夜を越えて、
ふたりの時間は、もう後戻りのできない深さへと静かに流れていった。




