第四十一章 音が終わる場所(無響の檻プロジェクト)
「音を閉じ込める」などと、誰が想像しただろう。
“共鳴”をテーマにしてきた《Silent Requiem》の思想に、真逆の輪郭が浮かび上がった。
だが、それは真の「終わり」を迎えるために必要な静けさ──音楽における“終止符”のようでもあった。
氷室奏介の語った“音”は、明確な旋律ではなかった。
彼の頭の中で鳴り続けるそれは、幽霊のようでもあり、かすかな胎動のようでもあり、
ひとつの“執念”として彼の内にこびりついていた。
あやのは黙って模型を覗き込んだ。
いくつかの実験的な素材が使用されていた。内部には極度の吸音構造が施され、
空間そのものが「音の棺」として成立するよう緻密に計算されていた。
司郎は珍しく長い沈黙を破り、静かに告げた。
「これは──“出口”だ。誰かの、そして音の」
彼の手のひらが、模型の中央に広がる白い回廊の一点を指し示す。
まるで聖域のような、沈黙の核。
その場所に、あやのはひとつの“音”を置くことを決めた。
“音の抜け殻”とも言えるメロディ。
それはピアノの幽霊が、最後に残した旋律の断片だった。
「この旋律は、生きていた記憶じゃない。
……死んでからの記憶なの」
あやのの目が伏せられる。
金色を帯びたその虹彩が、静かに震えていた。
氷室がこの空間に入ったとき、彼の中にある“音”はどうなるのか。
その結末は、まだ誰にも分からなかった。だが──
「音は、音として還るべきなのかもしれませんね」
澤井教授がふいにそう言った。
模型を眺めながら、ひどく静かな声だった。
「音は記憶だ。……そして罪だ。
戦後の混乱期、私の師が蔵前ホールに逃げ込んで作った曲がある。
それは演奏されず、録音もされず、楽譜も残されず、ただ……彼の死と共に、消えた。
まるで誰にも届くことのない“音の呪い”だった。
氷室くんの中にあるそれは、きっと……その“遺響”だ」
沈黙が落ちる。
あやのは、ゆっくりと顔を上げた。
「……じゃあ、私が“弔います”。
音でも人でも、誰かが最後にちゃんと、聴いて、見送らなきゃいけない。
でないと、ずっとそこに残ってしまう。……出口がないまま」
模型の中に息を吹き込むように、あやのは手を添えた。
白い回廊に静かに差し込む光。
それは「共鳴の回廊」で用いた導光構造の発展形で、音の記憶を“光”に変換して空間に封じる仕組みだった。
音は残らない。だが、光は残る。
それでいい。それがいい。
氷室奏介の中の“音”は、もはや楽譜にも、鍵盤にも還れない。
だからこそ、その魂が還れる場所を造る。
それが、建築の役目だ。
音のための、ただ一つの終焉。
《無響の檻》は、ついに着工の段階を迎えた。