幕間 蛍、落ちる
あやのは、ただそっと梶原の胸に顔を預けた。
その広い胸板に、今も鼓動がしっかりと刻まれている。
ひとつ、ふたつ──耳を澄ませば、その鼓動は自分のものと不思議に重なっていた。
風がやんで、蛍が一匹、梶原の肩へと舞い降りる。
あやのはその光を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……私、帰らなかったんじゃなくて……帰れなかったのかも」
「……」
「怖かったの。あなたに会うのが。
“信じてる”って、手紙には書いてあったけど、
本当はもう……私のこと、忘れてたらって……」
その声はかすれていた。震えていた。
けれど、もう涙は出なかった。
「馬鹿だな」
梶原の大きな手が、彼女の髪をそっと撫でる。
ぎこちなく、不器用に。それでも優しさがこぼれていた。
「忘れられるわけ、ないだろう。……死んでも無理だ」
それは言い過ぎだったかもしれない。
けれど、今のふたりには、それがきっと正しい温度だった。
あやのが顔を上げた。
梶原の目を、まっすぐに見る。
そして、もう一度、ふたりの唇が重なった。
今度は迷いも、ためらいもなかった。
呼吸と呼吸の合間で、
お互いの輪郭を確かめるように、深く、長く口づける。
心の奥に降り積もっていた不安が、
ひとつずつ溶けていくようだった。
梶原の腕が、彼女の背にまわされる。
もう離さないという意思が、そこにはあった。
あやのもまた、しがみつくようにその背に腕をまわした。
蛍の光がひとつ、またひとつ消えてゆく。
けれどそれは、終わりではなかった。
夜は深くなり、そしてふたりの距離もまた、
静かに、確かに深まっていった。
──その夜、ふたりはようやく、同じ孤独を分け合うことができたのだった。




