幕間 蛍の夜
月満ちる夜だった。
あやのは梶原と、整備された小川沿いの小道を歩いていた。
夏のはじまりの風はどこか冷たく、
それが余計に、手のひらの温かさを際立たせていた。
魔界蛍が、ことことと水音を縫うように舞う。
儚い光が辺りを包み、まるで時ごと閉じ込められたようだった。
「……すごい」
ぽつり、あやのが言う。
「龍界に行くまでは、ただの川だったのに。こんなに綺麗になって……インフラ整備、頑張ったのね」
「お前がいなくて、暇だっただけだ」
それが冗談なのか、本音なのかは、わからない。
でも、ふっと笑ってしまう。
くすぐったいような、少しだけ胸が痛むような、笑いだった。
「……ねえ、」
と、小さくあやのが口を開く。
でも、その言葉の先を言おうとした時には、もう手が強く握られていた。
何も言わずに、梶原の手が、そっと自分を引き寄せる。
あやのもまた、抗わなかった。
ふたりの影が寄り添い、そして、唇が重なる。
それは熱だった。
恋しさの残り火が、ようやく口火を切るような、
待ち続けた夜に、ようやく触れたような──
あたたかくて、
でも、どこか寂しいキスだった。
唇が離れても、言葉はまだ戻らない。
ただ、川の流れと虫の声だけが、静かに夜の奥へと続いていた。
「……ねえ、ずっとこうしていられたらいいのに」
あやのの声が、風にほどけて消える。
梶原は答えない。
けれど、その手が離れることはなかった。
「……あなたは、私を怒らないね」
あやのは、蛍の光の中で立ち止まり、小さく息を吐いた。泣きそうな声だった。絞り出すような、震える声。
「……あれだけ、心配させたのに。私……帰ろうと思えば、いつでも帰れたの。龍王に囲われてる間も、分かってた……心配してる人が、待ってるって」
そのまま、声がかすれる。
梶原の手は、何も言わずに彼女の肩へ触れただけだった。
「なのに、私は……」
言葉の続きはなかった。
だけど、梶原はそれ以上は求めなかった。
しばらくして、ぽつりと、彼が口を開く。
「……お前を縛り付けたなら、俺は……」
言葉に詰まり、低くうつむく。
「あの男と、同じになる。俺は違うって……お前に、そう言いたいだけなのかもしれない」
その声には、怒りではなく、悲しみがにじんでいた。
そして、遠慮がちに、けれども確かに続いた。
「……でもな、あやの。どうしようもなく、妬けるんだ。あいつの言葉に、お前が一度でも揺れたならって……そんなこと、考えたくもないのに……」
握る手が、わずかに震える。
「……俺は、欲深い」
それは懺悔ではなく、告白だった。
彼女が自分を選ばなくても、追ってしまう──
そんな、救いのない愛の形。
あやのはゆっくりと、梶原の胸に顔を預けた。
涙は流れない。ただ、心のどこかで確かに、何かが熱くなっていた。
夜は、まだふたりを離そうとはしなかった。




