第百一章 遠い風、近い音
──深夜。
魔界・記録庁の高塔。
誰もいない音の間に、あやのは一人、座していた。
窓の外、星のない空に風が流れる。
けれどそれは、界の風ではなかった。
胸の奥、言葉にならない“かすかな音”が、響き始めていた。
──知っている音。
──懐かしく、深く、優しく、
そして、すこしだけ……切ない。
それは、あの歌をうたった夜。
あやのが「名前のない風」に呼びかけた、その返答だった。
目を閉じる。
そのとき、風の中から、音が届いた。
「……きみの音が、まだぼくの中で鳴ってる」
それは声ではなかった。
心にだけ届く、月麗の“音の記憶”。
あやのは、静かに応じるように、喉の奥で音を立てる。
リュートもない。言葉もない。
ただ、胸に宿る旋律の断片を、音にして返した。
──わたしは、ここにいます。
しばしの沈黙。
そして、また音が返ってくる。
「あの詩、きみが手を加えたあとの言葉、全部……届いたよ。ぼくの“個”が崩れそうだった。でも、あれを聞いて、踏みとどまれた」
ゆらいでいる。
けれど、完全には崩れていない。
音はかすかに震えて、けれど温かかった。
あやのは、胸に手を当てて問い返すように、また音を送る。
──あなたは、それでも“ぼく”でいてくれる?
風が、答えた。
「ぼくは、まだ月麗であり、龍王である。けれど、いちばん強いのは──きみが“ぼくの名を呼んだ”という記憶だ」
その音には、もはや揺らぎがなかった。
あやのは、胸に手を当てたまま、そっと微笑んだ。
「──わたしは、あの夜あなたに名前を与えたわけじゃない。ただ、名もなき風に呼びかけた。それがあなたであったことを、いまは感謝しています」
その言葉は、音のなかに溶けていった。
月麗の音が、最後にひとつ、音色を響かせた。
「たとえもう会えなくても、ぼくの鱗は君にある。音が消えぬ限り、君はいつでもぼくを呼べる。ぼくは、それを“番”の証とする」
あやのの瞳が、静かに潤む。
「──ありがとう。でもきっと、もう呼ばない」
それは、拒絶ではなかった。
“選ぶ”という、やさしくも強い宣言だった。
**
風が止み、音が消える。
けれどそれは、断絶ではなかった。
静かに、深く、胸の奥で“音の余韻”が残る。
まるで月麗が、「わかったよ」と微笑んだように。
あやのは、そのまま目を閉じた。
風は止み、夜は深まり、
けれど心には、やわらかな静寂が降りていた。
彼女の中に、
もう“名を持つ風”は、
確かに棲んでいた。




