第百章 それでも、お前を選ぶ
──夜更け、記録庁の一室。
式典から丸一日が経っていた。
魔界全土には穏やかな風が流れ、風脈の安定は目に見えて回復していた。
あやのは、ようやく目を覚ました。
天井を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。
世界はまだある。
風はまだ吹いている。
自分は──まだ、ここにいる。
そんな実感が、胸の奥にゆっくりと降りてきた。
窓辺に座っていた梶原が、気配に気づいて振り向く。
「……起きたか」
あやのは、ゆっくりと頷いた。
「……ごめんなさい。心配、かけて……」
「構わない。元気で目を覚ませば、それでいい」
それだけ言って、梶原は湯を沸かし始める。
手際の良さは、いつも通り。
その背を見つめながら、あやのはぽつりと口を開いた。
「……怖かった」
梶原の動きが、一瞬止まった。
「選ばれるのって、こんなに怖いんだね。わたし、ずっと……“守られる側”だった。でも、あのときは違った。あの詩を歌ったのは、わたしの意志で。誰かに任せたわけじゃなくて……」
そこまで言って、あやのは少し俯いた。
「なのに、もし失敗してたら、きっと誰もわたしを責めなかった。でも──自分だけは、自分を許せなかったと思う」
静かな沈黙が、部屋を包んだ。
やがて、湯がわずかに沸いた音がして、梶原が湯飲みを持って戻ってくる。
あやのの枕元にそれを置いて、彼は、ようやく口を開いた。
「……俺は、守る側だ」
「……うん」
「でもな、それは“お前が選ばれたから”じゃない。“お前を選んだ”からだ」
あやのは、目を見開く。
梶原は、やさしい目で、しかしはっきりと見据えていた。
「誰が世界に選んだかなんて、正直どうでもいい。お前が何か大きなことを成したとか、特別な力があるとか、そんなことも関係ない」
「……」
「俺は、お前を守るって決めた。世界のためでも、魔界のためでもない。お前が、お前としていてくれるように、ただそれだけで十分なんだ」
湯気が、ふたりの間を静かに流れる。
あやのは、ようやく、ほんのすこしだけ微笑んだ。
「……それって、ずるい」
「そうか?」
「わたしは、誰かに“選ばれる”ことがこんなに怖いって言ったのに……梶くんは、“選ぶ側”なんだね。いつだって」
梶原は黙っていた。
否定も肯定もせず、ただ、少しだけうなずいた。
「でも、ありがとう。
梶くんが選んでくれるなら、
わたしは、また歌えるかもしれない」
その言葉に、彼はようやく口角をわずかに上げた。
「じゃあ、もう一度選ばせてくれ」
あやのがきょとんとした顔を向ける。
「……お前が、また歌おうと思ったら、そのときも。俺は必ず、お前を選ぶ」
それは、告白でも宣言でもなく。
ただの、揺るがぬ約束だった。
**
その夜、あやのはようやく深く眠った。
守られることと、選ばれることの重さを知って。
そして、自分が“誰かの意志で選ばれた”ことのあたたかさを、胸に抱いて。
世界は、静かに回っていた。




