第九十八章 風が名を持つとき
──式典開始時刻。
魔界・ザイラの階、円壇の中央。
五重に組まれた石の円が、音紋に沿って微かに光を放っている。
会場を囲む各界の使節たちは、息を潜めてその中心を見守っていた。
そして、ただ一人、あやのが立っていた。
星眼は封じられている。
けれど、音のすべてが、彼女を見ていた。
風の源が、息を止めて待っているようだった。
彼女は、声を放つ。
最初は、ささやきのような声だった。
――風よ
おまえがまだ、名を持たぬころ
わたしはおまえに 耳を澄ました
音は揺らぎを持たず、まっすぐに地を伝う。
それはまるで、界そのものが耳を傾けているようだった。
ある日、風は誰かの言葉に似て
誰かの祈りに似て
誰かの涙に似て 吹いた
円壇の周囲が、すこしずつ明るんでゆく。
それは魔法でも術でもない。
音に応じて、空間そのものが緩み、呼吸を始めた証だった。
だから わたしは
おまえに 名を贈ろう
あやのの声が、少しだけ強くなる。
愛することに 理由はいらない
ただ在れ、という願いだけが
わたしを ここに立たせた
その瞬間だった。
──風が立ち上がった。
吹き抜けるのではない。
下から、天へと昇る風脈が、あやのの足元を包み込むように舞い上がったのだ。
それは、ただの空気ではない。
風そのものが、音へ返答していた。
ザイラの階が震える。
音紋が反響し、界の各所へと共振してゆく。
まるで、龍界そのものが「応じる」と告げているように。
──そして、その風の核に。
小さな、銀の鱗が、ひとひら。
空中に浮かび、光を放った。
それは、月麗が贈った**“番の印”**。
あやのが封じ、しまっていたはずの鱗。
それが今、詩に呼ばれて戻ってきた。
まるで「おまえの音を聞いた」と、
遠くにいる誰かが告げてくるようだった。
あやのは最後の一節を歌う。
風よ これがわたしの音
名を与えるのではない
あなたが 誰かの名であってもいい
ただ、
あなたが“あなた”であってくれるなら
わたしは うたう
永遠に
──静寂が落ちた。
そして、風が、音を連れて世界をめぐった。
界が、応えた。
風脈のゆらぎが、穏やかに整い始める。
空気の流れが、優しく統一される。
あやのの足元の石は、わずかに青い光を灯した。
それは、“世界が安定した証”。
そして、それは──彼女の詩が“選んだ”という証でもあった。
あやのは、一歩、後ろへ下がった。
呼吸が震え、膝がかすかに揺れる。
それでも倒れなかったのは、
風が、彼女の背を支えていたからだった。
──世界が、彼女の詩に“帰ってきた”。
**
その場にいた誰もが、しばし言葉を失った。
唯一、誰よりも小さな声で、
袖の奥で司郎正臣が言った。
「……おかえり」
それは、あやのだけに向けた言葉だった。




