第九十七章 まっすぐ帰ってこい
──式典直前。
魔界・ザイラの階 地上円壇、舞台袖。
円形に組まれた音の調律舞台。
音紋に沿って風が昇る、星暦でも特異な“音の解放の時”。
その中央に立つ者は、ただ一人。
“記録者”としての真木あやの。
淡く編まれた銀の衣が、風を孕んでわずかに揺れている。
星眼は封じられている。
けれどその声と気配は、十分すぎるほど“異質”だった。
あやのが袖口に手をかけたそのとき。
ふと、肩にぽん、と乗せられた掌があった。
「……立派なもんだわね」
その声に、彼女は振り返る。
そこには、いつもと同じ姿の司郎正臣がいた。
黒縁眼鏡、白の作業衣、手にしているのは設営スタッフ用のデバイスパッド。
けれどその目は、たしかに彼女だけを見ていた。
「……司郎さん」
「なあに、そんな顔して。吐きそうなの?」
「少し……緊張してます」
「緊張なんてしないほうがおかしいわよ。自分の歌で世界が決まるかもしれないってのに、涼しい顔してたら、そりゃ神さまだ」
司郎はくつくつと笑った。
でもその笑いは、ほんの少しだけ、寂しさを含んでいた。
「なあ、あやの」
「……はい」
「間違えても、いいんだよ。選んだ音がどんな響き方してもさ。……ただ、ちゃんと、戻ってこい。」
あやのの瞳が揺れる。
「……間違えて、誰かを壊してしまったら?」
「壊れても、また作りゃあいい。それが建築の基本だし、人生ってもんよ。でもね──あんたが壊れたら、あたしが泣く」
その言葉は、あやのの胸の奥にまっすぐ届いた。
「……泣くとこ、見たことないです」
「じゃあ見せてやろうかい? 派手に鼻水垂らして、タバコ湿らせてやるよ」
あやのは、ふっと息をもらした。
それは、笑いとも、涙ともつかない、ほつれた感情だった。
司郎は、そんな彼女の額に手をかざす。
そっと前髪を整えるしぐさ。
「大丈夫。あんたの音は、ちゃんと世界を通す。だって、それはずっとあたしの横で育った音だから」
──その言葉を受けて、あやのは深く頷いた。
「……行ってきます。ちゃんと、戻ってきます」
「よし。それでこそ、うちのあやのだ」
風が鳴いた。
詩の始まりを告げる音だった。
司郎は黙って袖の奥に退いた。
背を向けながら、たしかに笑っていた。
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あやのは、ひとつ息を吸い込む。
ザイラの円壇へと、歩み出した。
夜の空はまだ星を見せない。
けれどその静けさの中に、確かに誰かの祈りがあった。




