第九十六章 守るものの場所
──式典、前夜。
魔界・記録庁、ザイラの階。
その最奥で、あやのはまだ“音”と向き合っていた。
詩は完成している。
だがその詩が、果たして“界”を救うか、それとも“誰か”を壊してしまうのか──
その答えは、まだ風の中にあった。
夜の帳が降りる頃、庁舎の外、影の深い石壁のそばに、ひとりの男の姿があった。
梶原國護。
壁に背を預け、黙したまま、その視線は遠くの庁舎の灯を見ていた。
そこに、あやのがいた。
けれど、声はかけなかった。
あの子がどこに向かおうとしているかを、いまさら言葉で止められるはずもなかった。
──それでも。
風の向こうから、かすかに響いた“音”。
それは、あやのが誰にも聞かせていない調べ。
龍界の記憶と、魔界の祈りを繋ぐ、彼女だけが知る旋律。
その音に、彼は眉ひとつ動かさなかった。
ただ、そっと足元の影に伏せていた黒い毛並みの犬に触れた。
「……幸」
黒い忍犬は、静かに鼻先をあげた。
「……あの子がどこに行っても、守れ。命令じゃない。……願いだ」
ぽつりと落とされたその声は、まるで風に消えるようだった。
梶原はそれきり黙し、目を閉じた。
思い出すのは、あの小さな手で差し出された飯盒のごはん。
焦げた端っこを嬉しそうに笑った、あやのの横顔。
誰のためでもなく、ただ「梶くんのために」と笑っていた彼女。
──あの音には、まだその笑顔が残っていた。
ならばいい。
今はまだ、あの子は戻ってこられる場所を知っている。
それで、いい。
だから彼は、何も奪わず、何も告げず、ただそこにいた。
あやのが振り返ったとき、
いつもと変わらぬ場所に、
いつもと変わらぬ眼差しで立っているために。
**
石壁の影に、風が一筋、音を通した。
その風は、あやののいる方角から吹いていた。
まるで誰かが、「いってくるね」と言ったようだった。
梶原は、軽くうなずいた。
「──行ってこい」
それきり、風は音を残さず、夜に溶けていった。




