第九十四章 選ばれた風は名を持つ
──明け方前。
魔界・記録庁、ザイラの階にほど近い小庵。
薄闇の中、あやのは再び一人で詩稿と向き合っていた。
灯りもつけず、筆も握らず。
ただ、膝の上に巻物を置き、両手で包み込むようにしていた。
龍蓮からの言葉が、まだ胸の奥に重く残っていた。
「……あなたの音が導くのです」
司郎や蘇芳にさえ、まだ何も言っていない。
鱗は再び沈黙していたが、代わりに、胸の奥が痛んだ。
──月麗が壊れてしまうかもしれない。
──それは、「あたしが歌った詩のせい」かもしれない。
指先が震えた。
“記録者”としての責務と、“個”としての想いがせめぎ合う。
けれど──あやのは、ふと気づく。
それは、誰かに強いられたものではない。
あやのは、自分の意思で“彼の音”を受け取った。
自分の耳で聴き、自分の心でうたい、自分の声で返したのだ。
だから、選ばなければいけない。
──これは、記録ではない。
──わたしの詩だ。
ゆっくりと、手が動いた。
巻物を解き、筆を取る。
すでに記された「風の詩」の末尾。
その“最後の一行”を、あやのは切り落とした。
代わりに、新たな一節を書き加える。
──筆が震えないことに、自分で驚いた。
その言葉は、静かにこう綴られていた。
あなたが 揺らぐなら
わたしが 風を定める
あなたが 名を失うなら
わたしが それを呼ぶ
あなたが 世界に抗うなら
わたしが あなたにうたう
書き終えたとき、
窓の外から、かすかに風が吹き込んだ。
その風は、
はっきりと、ひとつの音を連れてきた。
──やさしい、なつかしい、ひとの声だった。
『……ありがとう』
聞こえたかどうかは、わからない。
けれど、あやのの目元から、ふたたび雫がこぼれた。
**
その日から、式典の準備は新たな段階へと進んだ。
あやのは、変わらず冷静に詩を整え、調律を続け、
誰にも知られぬまま、その“選びなおした詩”を胸に秘めていた。
それは「響導の詩」ではなく──
──あのひとを選ぶ、わたしの詩。
そしてそれが、界に何をもたらすのか──
その結果を、彼女は受け止める覚悟をすでに決めていた。




