第四十章 来訪者は音を背負って
旧・蔵前コンサートホールの再始動は、ごく一部の人々の間で、静かに波紋を広げていた。
地元の新聞が短く記事にし、それを読んだ誰かがSNSで呟き、再生された小さな演奏動画がまた別の誰かの胸を打つ──。
音は、言葉よりも早く、人の心に届くのかもしれなかった。
その日、「出るビル」の応接室には一人の訪問者が現れた。
痩せぎすの身体に、黒いロングコート。深い帽子の影に隠れた目は赤く充血していたが、異様なほどに澄んでいた。
彼は名を「氷室奏介」と名乗った。かつて舞台作曲家として名を馳せた人物であり、数年前に忽然と業界から姿を消していた男だ。
「音に……取り憑かれてしまいましてね」
彼はゆっくりと椅子に腰を下ろしながら、乾いた声で語った。
「どこにいても、耳の奥で鳴るんです。誰かの演奏でも、自分の曲でもない。
それは……音でもなく、叫びでもなく、もっと深い場所から、私の脳に直接響いてくる。
──まるで、魂が音になったかのように」
あやのは、その語り口に既視感を覚えていた。
蔵前ホールで出会ったピアノの霊もまた、そんなふうに“音”になってさまよっていた。
そして今、その痕跡に、別の人間が“憑かれている”。
「澤井教授に紹介されました。君たちの建築と音楽の融合プロジェクトに……共鳴するものがあると。
私はもう、作曲家ではない。ただの“器”です。
でも、君の音を聴いたとき……“あの音”が一瞬、黙ったんです」
氷室の指先が小さく震えていた。
彼は、自分の内側にある“何か”に抗いながら、それでもなお音楽に身を委ねてきたのだろう。
そして、その先で崩れ落ちる寸前に、あやのの音に救いを見出したのだ。
司郎は彼の話を無言で聞いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「つまり、依頼か。お祓いか、曲か、建築か。はっきりしてくれないと見積もれないわよ」
その現実的すぎる言葉に、氷室はふっと笑った。
「私は、“場所”が欲しいのです。
──その音が、終わる場所を。
どうか……私と、その音を、葬ってください」
数日後、「出るビル」では新たな設計図が広げられていた。
“音の共鳴”と“沈黙の終焉”をテーマとした、仮称《無響の檻》プロジェクト。
それは、ある意味で《Silent Requiem》の“終楽章”ともいえる空間設計だった。
氷室奏介のための、最期の音のための、棺のような舞台。
「本当にやるのか」
梶原がぼそりと聞いた。
「ええ。だって、まだ聴こえるの」
あやのは耳に手を添えて、遠くを見た。
「──終わっていない音が、ね」