第九十三章 封じられた風の告白
式典まで、あと七日。
魔界・記録庁別館の離れにて。
その日、あやのは久方ぶりにひとりで詩稿を整えていた。
鱗の共鳴は昨夜から静まり返り、再び沈黙を守っている。
──と、控えの者から告げられたのは、龍界の使者・龍蓮の訪問だった。
夜半に近い時間。
あえて“儀礼の間”ではなく、“私室の縁”に姿を見せたその意図を、あやのはすぐに察した。
「……こんな時間に、どうされましたか」
「正式な報告ではありません。ですが、記録者殿に個人として──お伝えすべきことがございます」
龍蓮は、どこまでも礼儀を崩さない男だった。
けれどその眉の奥には、明確な焦りと、痛みがあった。
あやのはうなずき、小さな茶器をもう一つ用意する。
湯気の立つ音だけが、ひとときの静けさを繋いだ。
そして──
「陛下……月麗様の御身に、かすかな異変が生じております」
「……やっぱり」
小さく、あやのは言った。
鱗の震え、心の奥に流れ込んだ歪んだ風──
それらすべてが、龍王の変調を示していた。
龍蓮は続けた。
「陛下は、もとより龍界において唯一無二の存在。その御身は風脈そのものと接続しておられます。……ですが、近頃──その“風”が微かに乱れを見せている」
「それは……“界”ではなく、陛下ご自身の?」
龍蓮は一瞬、言葉を選ぶように目を伏せた。
「……はい。あくまで私見となりますが、それは“心的影響”が、風脈に影響を及ぼしている可能性が高い、と」
あやのは、胸の奥で鱗が再びぴくりと反応した気がした。
「……では、その原因は?」
「記録者殿──あなたと陛下との結びつきが、強すぎたのかもしれません」
風が止まる。
「……それは、私のせいだと?」
「いえ、決して。ですが、陛下があなたに“番”の印を渡されたこと……あの瞬間から、陛下は“個”としての揺らぎを抱え始めたのです」
あやのの喉が、ぎゅっと締まった。
彼の“詩”は、あやのに届いた。
だが──それが、彼を壊していた?
「それは……じゃあ、わたしが詩をうたえば、彼は──」
「回復するかもしれません。あるいは、より深く“あなた”に縛られることになるかもしれません」
龍蓮の声音は、はっきりと、だがどこか哀しかった。
「我ら使者は忠義に従います。ですが、あの方が“神”として在るべきか、“ひと”として在るべきか──
その選択は、あなたの音が導くのです」
──“神”としての孤高か、
──“ひと”としての揺らぎか。
あやのは言葉を失った。
机の上に置いていた鱗が、微かに震えている。
彼は、今も──迷っている。
**
その夜。
龍蓮は言葉少なに礼を述べ、静かに退出していった。
あやのは、ひとり残された部屋で、
詩稿を開きかけて、けれど一文字も書き足すことができなかった。
風が、どこか遠くで鳴いていた。
それは、名を呼ぶ音に似ていた。




