第九十二章 鳴る鱗
──夜半。
あやのはひとり、記録庁の私室に戻っていた。
衣の袖からそっと取り出したのは、龍王から贈られた黒銀の鱗。
わずかに翳りのある色彩。
けれどその表面には、金の微粒が浮かんでは沈む、まるで風にたゆたう雲のような模様があった。
彼女は、それを掌に乗せて、詩を胸中で唱えた。
「……名を忘れたまま──」
風もなく、声もなく。
ただ心の奥で、その詩がゆっくりと響いた瞬間──
──ぴたり。
鱗の表面に、静かな波紋が走った。
あやのは息をのむ。
鱗が──応えている?
掌の上にあるそれは、微かに温かく、まるで生きているかのように律動を刻みはじめていた。
まるで心臓のように、“音”で鼓動している。
「……聞いてるの?」
問いかけたわけではない。
だが、その瞬間。
──音がした。
否、「記憶の音」として、脳裏に直接届く感覚。
──
──風の中、静かな水面が鳴る音。
──そして、誰かの息遣い。
『……君が、まだぼくの詩を覚えていてくれたなら』
『ほんのすこし、楽になれる気がした』
月麗の声だった。
低く、眠る前のような音色。
切なげな、それでいてどこか微笑んでいるような──
だが、あやのはその音に、ただの懐かしさではない歪みを感じ取った。
その音には、わずかな乱れがあった。
「……どうして……苦しそうなの?」
鱗は再び震えた。
だが、何も返ってこない。
代わりに、あやのの星眼の奥に──
視覚ではない“知覚”として、ある映像が流れこんできた。
──薬殿。
──夜の龍仙洞。
──誰もいない空間。
──玉座の間で、月麗がひとり、風を止めて立ち尽くしている姿。
まるで、“詩を聴くことを恐れている”かのように。
あやのは、はっと息をのんだ。
「──違う、ちがう……これは、あなたの音じゃない」
彼女は鱗を胸に抱いた。
心を鎮めようと、深く息を吸い、再びあの詩を心中で唱えた。
音はただ、風のなかで名を持たず
名はただ、記録のなかで意味を超え──
すると──
鱗の鼓動は、ゆっくりと落ち着いていった。
けれどそれは、まるで“応急処置”のようだった。
リンクはまだ確かに繋がっている。
あやのの“祈り”が安定を保っているだけ。
向こうの揺らぎは、まだ続いている。
**
しばらくの沈黙の後。
あやのは、鱗を掌から離さず、窓辺へ立った。
魔界の空。
星もない、けれど透明な闇の向こうに、
彼女はまだ風の名残を感じていた。
「……あたしが、うたう。あなたの音が、壊れないように」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
だが確かに、界はそれを聴いていた。
そして──
その足元で、封じたはずの星眼がわずかに光を帯びた。
「……あたしは、あなたを“記録”する。忘れないために。壊れないように」
詩はまだ完成していなかった。
それは、音の調和とともに生きる詩だから。




