第九十一章 名を持たぬ灯を問うもの
──夜。
魔界・記録庁の静謐な一室。
その部屋は、古文書の保管庫でもあり、時折あやのが詩や記録の下書きを綴る場所でもあった。
蝋燭の灯りの下、あやのは机に向かい、
完成した詩の清書をそっと巻物へと移していた。
そこへ、足音もなく蘇芳が現れる。
「……すみません、夜分に」
「ううん、だいじょうぶ。起きてたから」
あやのは手を止め、笑顔を向けた。
その顔に疲労はあったが、不思議と晴れやかだった。
蘇芳は机の隅に目をやる。
そこには、書き写された詩の一節が開かれていた。
その灯が、界をゆらがせぬように
その音が、誰のこころも裂かぬように
静かに、蘇芳は問うた。
「……この詩に込めた“祈り”の本質は、どこにあるのですか」
あやのは、少し驚いたように目を瞬かせた。
「それは……“誰か”のため、というより、“界”のため、かな」
「“界”のため?」
「うん」
あやのは、机から視線を外し、部屋の窓のほうを見る。
月の光が遠く差し込んでいた。
「界って、すごく不安定。人の心で揺れるし、誰かが憎めば割れる。でも……誰かが“想えば”、ちゃんと繋がるとも思ってる」
蘇芳は黙って聞いていた。
「龍界でも、魔界でも、音ってすぐに反応するでしょう。風も、水も、気脈も──それって、きっと“祈り”に近いのかもしれないって思ったの」
あやのの声は、ささやきに近かった。
「“名もない想い”でも、祈りになることがある。わたしがしたいのは、そういう祈りの形。名前のない人のために、誰のものでもない音を響かせること──それが、界を揺らさない方法なんじゃないかな、って」
蘇芳の目がわずかに細められた。
「……それは、自己犠牲ではありませんか?」
一瞬、空気が止まった。
だが、あやのはゆっくりと首を横に振った。
「ちがうの。これは、“わたしがいたい場所”を守る音」
「“いたい場所”……」
「誰かの隣じゃなくてもいい。誰かのためでも、もうなくていい。でも、“ここ”にいるって、界が覚えててくれるなら……それだけで、うたう意味があると思った」
あやのの星眼は、封じられていた。
だが、その奥には、確かに深い光があった。
蘇芳は静かに目を閉じ、ひと呼吸置いてから、頷いた。
「……わかりました。
私には祈る資格がないと、どこかで思っていましたが──あなたの詩は、祈りを誰にも開いてくれるのですね」
あやのは少し、目を見開いた。
「……蘇芳さん」
「この詩は、響導ではなく、“結び”そのものです。
私も、それを守るためにここにいると、忘れないようにします」
その言葉に、あやのははにかむように笑い──
初めて、そっとこう言った。
「ありがとう」
短く、けれど力のある言葉だった。
その夜、二人はもう言葉を交わさず、
ただ同じ部屋に静かに座り続けた。
月が照らすその灯りの下で、
詩はただ、風の中に静かにあった。




